近寄ってはいけないと、言われている場所がある。
兄さまも、姉さまも、一つしたの妹も、一族の人がたくさん通うその場所に。
私は近寄ってはいけないと、そう言い聞かされていた。
けれど、そこには音があって。
たくさんの、人の気配があって。
しんとした、猪脅しの音ばかりが目立つ部屋よりも、ずっと魅力的で。
だからふらふらと、近づくことも何度かあって。
「何をしてる!」
「―――っ」
突然背後で上げられた怒声に、びくりと肩を震わせた。
中を覗いていた格子窓から手を離し、そちらを振り返ってみればどこかで見たことのある男の人。
きっと親戚の誰かなのだろうと思っていると、その人は険しい形相でこちらへと近づいてきた。
「声が………聞こえてきたから………」
「ここへは近づくなと何度言ったらわかる!? 薔薇の子供であるお前には生涯縁のない場所だ!」
彼はそう声を荒げると、まだ五歳ほどの幼い少女の腕を荒々しくつかんでその場から離れた。
そして近くにいた女中へと突き飛ばすように預けて去っていく。
去り際に向けた視線に、あからさまな侮蔑の光を宿して。
「了華(リョウカ)様、さあ、こちらへ………」
無機質な女中の声に促されるまま、再び元の部屋へと足を向ける。
訪れるものもほとんどいないあの部屋だけが、己を卑下することのない唯一の場所。
■□■□■□■
その人は、一族の人ではないようだった。
新年の祝いの席。
何割かは、そういう人も混じっているようで。
それが、御神楽家と同じように吸血鬼ハンターという仕事を生業としている人たちなのだと知ったのは、七つの歳を数えるころ。
本家の末席に座り、口もきかず、顔も上げず、ただ祝いに笑いさざめく喧騒を聞いているだけの幼い少女に、その男は一人、声をかけた。
「これをやろう」
「……………?」
ずいと差し出された大きな手。
思いもかけないことに、ただただ驚くばかりで反応することが出来ない了華は、顔をあげてまじまじとその人を見た。
目の前に屈み、こちらをのぞきこんでいる無精ひげ。
男はみな黒羽二重に身を包み、女はきらびやかな振り袖や着物で飾り立てているこの新年の席で。
その人だけは、黒いコートに黒のレザーパンツ、頭にはカウボーイハットといった、いっそ土足じゃないのが不思議なぐらいのいでたちで異彩を放っている。
その人は、顔をあげ目を丸めて固まるしかない智子の手を無造作に取ると、四角い小さな袋を握らせた。
そしてそのまま立ち上がり、早々に賑やかな喧騒の中へと戻っていく。
残された幼い薔薇の子供は、呆然とその後ろ姿を見やって。
生まれて始めてもらったお年玉という代物をじっと確認し、それからほんのりと、僅かに頬を染めて微笑んだ。
誰かが彼女を見ていれば、きっと驚いたに違いない、見たこともない笑みだった。
結局そのお年玉の男が一族の傍系で、業界でも一、二を争う腕利きのハンターなのだと。
彼女が知るのはもうしばらくしてからの話。
■□■□■□■
その存在を、忘れていたわけではない。
国内外を問わず、依頼があればどこへなりと飛んでいくのが俺なりのビジネススタイルで。
本家へ顔を出す機会などせいぜい新年の祝いの席ぐらいだが、それにすらろくに出席しないのも今さらな話し。
そのせいかどうかはわからないが、確かに俺は本家や一族の連中が騒ぐほども、その子供の存在を気にとめていなかったのは事実だ。
それでもあの会合の翌年。
奇しくもあの時と同じモナコで、本家に第四子誕生というこれまた似たような報を受け、不承ぶしょうながら祝いに出向いた時には、件の子供の姿を目にする機会もあって。
ようやく歩き始めたころの幼い子供。
まだ危なっかしい時期だろうその子供を、その時は、かえりみる者はいないようだった。
そうして再び国外へ逃亡し、忙しさを言い訳に本家には寄り付かず。
そんな中、五番目に弟が生まれてもなお、第三子であるあの子供の席が、末席から変わることは終ぞないらしいという話を、同じ一族の人づてに耳にした。
それから再び彼女を目にしたのは、あの会合から七年の時が過ぎた新年の祝いの席。
その年も例によって例のごとく、帰国するなりまたすぐさまとんぼ返りでシュトルツェンに向かうつもりだったが、しかし空港に着いたところで運悪く家の人間に捕まり、しぶしぶ本家の新年祝いに顔を出したのだ。
格式高いとはいえそこは祝いの席。
一族もその傍系も、無礼講とばかりに酒に酔いしれ笑いさんざめく。
けれどその宴の場に、末席とはいえ本家の席に座しながら、独り置物のように身じろぎしない子供がいた。
姿勢よく膝に手を置き、虚空を見つめたまま微動だにしない。
同じ年頃の一族の子供たちが何かしら遊んでいても興味を示さず。
一族の大人たちは、隣に座る兄弟たちを直系の血を引く子供としてもてなす時にすら、彼女にだけは一瞥もくれなかった。
まるでそこには、誰も存在していないとでも言うかのように。
ほとんど一日中続くこの長い長い宴会を、その子供がもう何年もそうして過ごしていたのだということは、考えるまでもない。
ただ置物のように。
体裁を整えるためだけにそこにいる。
―――薔薇の刻印を背負った子供。
「これをやろう」
目の前に屈みこみ、そう言って差し出してやったものを、その子はすぐには受け取らなかった。
ひどく驚いた顔をして、まじまじとこちらを見上げてくる。
驚きと戸惑い。
おそらくは、年玉という子供の特権を貰ったこともないのだろう。
知らないわけではあるまいに。
兄弟や一族の子供たちが受け取る様を、見ていただろうに。
固まったままのその手を取り、白い年玉袋を握らせた。
すぐにその場を離れる。
目ざとい干からびた長老衆の何人かが、こちらを見ているのがわかったので。
へべれけに酔っている一団に紛れ込んでしまう。
子供がふれれば一発で当てられてしまうだろう酒気の合間から、一度だけその子供の方を流し見た。
俯いてはいたが、その視線は虚空ではなく手の中に落とされていて。
人形のようだったその顔には、僅かに表情らしきものが見て取れた。
それ以来。
仕事先から仕事先へ、依頼をこなして各国を飛び回るビジネスライフが僅かに変わり。
帰国すれば必ず、ほとんど寄り付くことのなかった本家へと足を運ぶようになったのは、埒もない話。
読み流し用。