「ああ、晴れたなぁ………」

 障子を開けて開口一番。
 は差し込む白い朝日に手をかざし、空を見上げてそう言った。




         雨の降る日




 昨日の夜半ぐらいから降り出していた雨は、今朝にはもうすっかりあがっていた。
 夜の間に洗われた空気は、いつもよりぴんと冴えているように感じる。
 一層濃さを増した草木の匂いが、寝覚めの頭に心地いい。

 今日もいい一日になるだろう。

 心なしかいつもよりすっきりした気分で、は手早く身支度を済ませると、そのまま台所へと向かった。
 手馴れた様子で朝食の準備をはじめる。

 家事は剣心と分担しているけれど、どちらが何をするとはっきり決めているわけではない。
 先に起きたほうが朝食の支度をするし、また、片方が掃除をしていれば片方は洗濯を。はたまた薪を割っていれば、もう一方は水汲みを……といった具合に、それぞれがその場その時に応じて片付けていくのだ。
 今日はどうやらのほうが先だったようで。
 鼻歌混じりに食事の支度をしていると、小半時もしないうちに剣心が姿を現した。


「おはようでござる」

「おはよう、剣心」


 かまどの火加減を確かめながら、背中で軽く答える。
 剣心は袖を紐でたくし上げると、食卓の準備をしに居間へと足を向けた。

 米を炊いて、味噌汁を作って。
 戻ってきた剣心には、七輪の上であぶっているメザシの面倒を見てもらう。

 そうこうしている内に他の二人も起きだして来て、元気な朝稽古の掛け声が庭から響いてきた。
 それを耳にしながら、着々と準備を進めて。
 薫と弥彦が稽古を終える頃には、すっかり食卓の準備は整っていた。

 四人そろって席につき、手を合わせて食べ始める。
 いつもの光景。
 いつもの朝。

 夜に降った雨のせいで少し湿気があるものの、今日もいい天気になるだろう。
 単調で穏やかな一日が、今日もまた始まる。

 朝食の片付けは剣心に任せて、は洗濯をするため井戸に向かった。
 桶と洗濯板とせっけんと。
 冷たい井戸水で汚れ物を洗うと、固く絞って竹ざおに干した。
 ぱんっと皺を伸ばして太陽にさらす。

 風は無いが、日当たりは良好。
 地面はまだぬかるんでいて湿度が高いけれど、きっと昼には乾くだろう。
 干し終えた洗濯物を見上げて、はよしと頷いた。

 さて、お次はなにをしようかな。
 そうが身体を反転させて振り向いた時、ちょうど通りかかった剣心が、こちらに気づいて足を止めた。


「おお、。丁度いいところに」


 そう言いながら近づいてくる剣心の手には、買い物用のかごが持たれていて。
 買い物にでも行くのかと、は小首を傾げる。


「ちょっと付き合ってほしいでござるよ。買い物に行くのだが、少々量が多くなりそうでな」


 そう言った剣心の言葉に、は、ああと頷いた。
 そういえば、そろそろ醤油が切れそうだったのを思い出す。
 あとは酒も心もとなかったか。
 剣心にそう問えば、ついでに食材も買っておきたいのだと言うので、はわかったと了承した。


「これ片付けてくるから、先に玄関に行ってて」

「ああ」


 洗濯桶やら板やらを抱えあげ、は元の場所へと戻しに向かう。
 それらを片付けると、袖をたくし上げていた紐を取り去り、置いておいた刀と脇差を腰に差して玄関へ向かった。
 すでに門前で待っていた剣心に軽く手をあげる。


「お待たせ。まずはなにから―――あ」

「どうしたでござる?」


 並んで歩き出したが突然立ち止まったので、剣心は肩越しに振り返って首を傾げた。
 見るとは腰を曲げて、なにやら足元をいじっている。
 下を向いたまま剣心に答えて。


「いや、この草履、そろそろ替えないとまずい。緒の部分が切れそうだ」


 ほらと指し示す部分を見れば、確かに随分くたびれた様子で。
 剣心は、おろと呟いた。


「拙者の部屋に一足新しいのがあるでござるよ。とりあえずそれを………」


 そう言って部屋に戻ろうとした剣心を、がすぐに呼び止める。
 上体を起こし、足で軽く地面を叩いて。


「いいよ。普通に歩く分にはまだ大丈夫だ。明日にでも買いに行くさ」


 はそう言って、すたすたと歩き出した。
 剣心は、そうでござるか? と首を傾げると、そのままの後を追ったのだった。














 と、ここまでが今朝から今にかけての大まかなあらすじで。
 確かにいつもと同じ平穏な一日であったその話は、今となってはもう儚い過去の記憶と成り果てていた。


「…………ねぇ、剣心?」

「…………なんでござるか、


 買い物かごを手にしたまま、まるで悟りでも開いたかのような笑みを浮かべているが、隣で醤油樽を担いで立っている剣心に声だけで呼びかけた。
 その表情は違うけれど、どちらも正面を向いたままで。


「つかぬことを聞くけれど」

「ああ」


 二人は目の前にいる人物から目を離さない。
 いや、正しくは、自分たちを取り囲んでいる数十人の男たちから。
 しかも彼らは、ご丁寧にも皆一様にガラが悪くて。
 例外なく手に手に武器を持っていて。


「心当たりは、あったりする?」


 と、が問えば。


「………………いいや、とんと無いでござる」


 返ってきたのは、そんな否定の言葉。
 僅かに沈黙があったのは、おそらく少し考えたのだろう。
 けれど出てきたのは否定の言葉で。


「そういうは、どうでござるか?」


 今度は剣心がに問い掛ける。
 そうされたは、すぐさま口を開いて。


「ない。……………こともない」


 きっぱりとした否定の後に、ポツリとそんなことを付け足した。
 下卑た笑いを漏らしながら、連中はこれ見よがしに武器をちらつかせて迫ってくる。

 ここは人通りの無い竹林の道。
 文字通り四方を囲まれて、今の二人には逃げ道などありはしない。

 しかし、だんだんと輪が狭められても、取り囲まれた二人の顔色は一向に変化する兆しを見せなかった。
 それどころか、のんきに会話するありさまで。


「………

「不可抗力だ。私はケンカを売ったおぼえも、買った記憶もないよ」


 僅かに咎める色合いを含んだ剣心の声に、はそう言い訳する。
 事実、自ら進んでケンカを売買するような、そんな酔狂な趣味も記憶も一切ない。
 確かにないのだが、しかし、思い当たる節はあった。


「二、三日前に街中で、四、五人ほど丁重におもてなしした覚えはある」


 それは、が所用で東京の街をふらりと歩いていた時のこと。
 目的の店の前まで来た時、そこには今目の前にいる連中と同じような風体の男が五、六人、入り口を塞ぐようにしてたむろしていた。
 光ものは抜いていないまでも、明らかにヤクザとわかるガラの悪さ。
 通りを行く人々は怯えた様子でそこを避け、誰も店に近づけずにいたのだけれど。

 一人だけ。

 遠巻きにしている人垣を掻き分けて、さも当然のように店に入ろうとする無謀な人間がいた。
 もちろんその人物は、刀を差した剣客姿の―――つまりはだったのだが。

 しかし、そんなことをすれば当然絡まれるわけで。
 あわや袋叩きかと、周囲の野次馬たちが息を呑んだ次の瞬間。
 地面に這いつくばっていたのは、ガラの悪い男たちのほうだった。


「刀は抜いてないから、買ったことにはならないだろう?」


 売られはしたけど、と。
 は軽く肩をすくめて見せる。


「おいっ! てめぇらなにごちゃごちゃ言ってやがるか知らねぇが、無事に帰れると思うなよ!」


 なんとも危機感のない二人の様子に痺れを切らしたのか、連中の一人がそう声高に叫んだ。
 それによって一層強くなる殺気。
 いつ飛び掛かってこられてもおかしくないその空気を感じ、はやれやれと溜め息をついた。
 そして、一歩前に進み出る。


、ここは拙者が………」

「剣心の役目はその醤油樽と、大根、ゴボウ、にんじんその他諸々の野菜を死守することだ」


 引きとめようと声をあげた剣心に買い物かごを押し付けて、は刀に左手を添えた。
 かちゃりと鍔の鳴る音がする。
 血気に盛る男たちをひたと見据えて。


「傷一つでもつけたら、裏の庭に置いてあるあの薪全部、割ってもらうから」


 そうあっさりと告げて。


「〜〜〜、確かあれは、三か月分ぐらいあったはずでは………」

「今日中にね」


 引きつる剣心にきっぱりと言ったの一言を合図としたかのように、じりじりと機を測っていた男たちは一斉に飛び掛かってきた。
 野太い雄たけびと、癇に障る下品な笑い声が響き渡る。

 完全に勝利を確信した男たちは、嬉々として武器を振り上げたのだけれど。

 身構えもしていなかったが僅かに身じろいだと見えた瞬間。
 倒れ伏したのは、負けることなど考えもしていなかった男たちのほうだった。

 一瞬の出来事で、五人の男が昨夜の雨にぬかるんだ地に沈む。
 いつの間に抜いたのやら、の手には冴えた光を放つ刀身が握られていて。


「―――っ、なにしてる、てめぇら! やっちまえ!」


 予定外の出来事に怯んでいた男たちはしかし、しぶとくも再び士気を奮い立たせ、猪のごとく猛然と突っ込んできた。
 襲い来る敵を、はちぎっては投げ、ちぎっては投げ。
 息一つ乱さずに刀を振るう。

 一人一人は雑魚もいいところで何の苦労もないのだが、何しろ数だけは多いので、いちいち正しい峰打ちをしていては面倒くさいことこの上ない。
 仕方がないのでは刀を返したまま、急所を強かに打って相手を沈めていた。

 つまりは皆、昏倒しているということで。
 ふと剣心のほうへ視線をやってみれば、襲い掛かってくる連中を器用に避けながら、何食わぬ顔で肩に担いだ醤油の樽を思い切りよくぶつけている姿が見える。
 その様子を見る限り、おそらく以前にも同じようなことをしたことがあるのだろう。
 随分と自然な動きだ。

 そんなことを考えながら刀を振るっていたは、不意に感じた背後の気配に大きく身体を旋回させた。
 刀の柄頭を、背後で今にも武器を振り下ろそうとしていた男の横面に叩き込む。
 遠心力を利用した一撃は凄まじいもので。
 大柄な男の身体が、勢いよく水たまりの中へと突っ込んだ。


「…………」


 男たちの攻撃が、一瞬途切れる。
 こちらは数十人の兵をそろえ、手に手に武器を持って、準備は万全だったはずだ。
 ましてや実際に目にした標的は、線の細い優男で。
 余計なおまけもついているようだったが、取り囲んでしまえば簡単にかたがつくと思っていた。
 それなのに現実は、泥にまみれ、意識を失い倒れ伏すのは仲間ばかり。

 今更ながらに押し寄せる後悔の波。

 自分たちは、もしかしてとんでもない人間にケンカを吹っ掛けてしまったのではないだろうか。
 しかしそんな考えも今となっては後の祭りで。
 引くに引けないとはまさにこのこと。

 男たちは流れる冷や汗を拭いながら、半ばやけくそになって再び武器を振り上げた。
 はそれに、呆れ顔で嘆息する。
 逃げるのならば追わないものを、どうして負けるとわかっていながらかかってくるのか。
 もとよりそちらの逆恨みなのだから、そちらが引いてくれればいいのにと。

 しかしそんな理屈が通るなら、はじめから襲ってきたりしないわけで。
 仕方がない。どうせやらなきゃいけないのなら、さっさと終わらせてしまおう。
 は刀を軽く構えると、今度は一気にかたをつけるため、ぐっと足を踏み込んだ。



 その瞬間。


 ブツリ、と。


 重心を乗せた足元から聞こえた鈍い音。
 それと同時に、傾く視界。


「―――っ!」


 踏み込んだ右足を支えていた負荷が突然失われ、咄嗟に左の膝をついて転倒するのを免れた。
 しかし、男たちの攻撃はもう目の前に迫っていて。
 考えるより先に、身体が跪いた体勢から下段に攻撃を繰り出そうと動く。しかしそのために踏ん張った左の足も、昨夜の雨でぬかるむ地面によって後ろに滑り………。


 ―――しまった。


 ここへきてようやく、の脳裏にその言葉が浮かんだ。
 迫る凶刃を目にしたまま。
 襲い来るであろう衝撃に、無意識の内に身構える。


「死ねぇ―――ッ!」

「―――っ!」


 二つの声が、同時にの鼓膜を振るわせた。

 その直後、視界を満たしたのは迫り来る無数の白刃ではなく。
 普通の刀とは、明暗が逆になっている珍しい刀身。
 それが振るわれた残像と、赤い着物と赤い髪。

 今まで生き残っていた残りの連中はすべて、断末魔の叫びをあげることもなく一瞬の内に地に沈んだ。


「………………」


 辺りは、直前までの喧騒など嘘だったかのような静けさに満ちる。
 刀を一閃させただけでその場にいた者たち全てを叩き伏せた剣心が、ゆっくりと上体を起こした。
 ぬかるみに足を取られ、跪いた体勢のままのがそれを呆然と見やる。


「…………剣心?」


 音もなく、抜いた刀を鞘に戻して。


「なんでござるか」


 答えた剣心の声は、いつもより低かった。
 僅かに俯いているせいで、前髪の影になって表情が見えない。
 はかがんだ体勢のまま、それを見上げて。


「殺したのか?」


 刀は逆刃のままだったけれど。
 が見た限り、あれだけの力で殴られれば、ふつう打ち所が悪ければ死んでいてもおかしくないだろう。
 事実、男たちは叫ぶ間もなく昏倒して。


「いや………だが、少々力を入れすぎた」


 抑揚なく言うと、剣心はの傍へと近づいて己も片膝をついた。
 その表情はまだ窺えない。
 は首を傾げて。


「剣心、汚れる」

「ああ」


 その忠告も、聞いているんだかいないんだかわからない、微妙な返事で流された。
 はますます首を傾げる。


「剣心?」

「……………鼻緒が切れたでござるか」


 ふと足元に視線を落とした剣心がそう呟くので、も自分の右足に目をやった。
 するとそこには、先ほどブツリと鈍い音を響かせた原因が。


「あー、まだ持つと思ったんだけどな」


 草履の鼻緒が見事にちぎれ、の右足は半分ぬかるみにはまっていた。
 確かに普通に歩いている分には問題はなかったのだが、さすがに立ち回りとなるとそうもいかなかったらしい。
 おまけに地面のぬかるみに足を取られ、膝から下は泥だらけだ。


「怪我はないでござるな?」

「あ? ああ、大丈夫。自分でこけただけだから………って剣心。どうしたのさ、さっきから」


 しきりに自分を心配する剣心に、は怪訝な顔をした。
 この程度の連中に遅れをとることなどありえないと、わかっているはずなのに。
 先ほどのことにしても、反撃は出来ないまでも、避ける方法なら他にいくらでもあったのだ。
 それなのに剣心は刀を抜いて。


「心配をかけたのは悪かったけど、怪我なんて今更だろう。気にすることでもな…………」

「気になるさ」


 が苦笑混じりに言おうとした言葉を、剣心は思いのほか真剣な口調で遮った。
 驚いたが剣心の顔を見ると、剣心はまっすぐにこちらを見返してきて。


「気になる、でござるよ。昔も今も、お主に怪我をされるのが一番こたえる」


 剣心の右手が、の顔を自分の胸に押し付けるように、頭の後ろへと回された。
 は固まったまま動かない。
 剣心はくすりと笑って。


「本当に、は変わらぬでござるな」

「………………うるさい」


 腕の中に抱えた顔が赤く染まっていることは、見るまでもなく明らかだった。
 ひとたび剣をとれば、たとえどんな窮地にも動じた様子などひとかけらも見せない彼女が、この類いの不意打ちには弱い。
 滅多に見られないその様子を、剣心はここぞとばかりに堪能していたのだが、その時ふいにの雰囲気が変わったことに気づいた。


「―――剣心」

「おろ?」


 聞こえてくる声もどこか違う。
 剣心が腕の中を見下ろすと、こちらを見上げると目が合った。
 その表情は、極上の笑みで。


「君の役目は、なんだったかな?」


 明るいけれど冷たい。
 優しいけれど鋭い。
 そんな声音で問われたことに、剣心は、役目? と小首を傾げる。

 しかし。

 次の瞬間には、顔面からさっと血の気が引いていた。
 地面に這いつくばっている連中と乱闘を始める前に、と交わした言葉を思い出す。



『剣心の役目はその醤油樽と―――』



 ふと自分の手元を見てみれば、つい先ほどまでは確かにあったはずのものが忽然と消えていて。
 ちらりと背後を確かめる。


「いや、、これは不可抗力でござる………!」


 醤油の樽や大根、ゴボウ、にんじん………。
 その他全ての食材が、泥にまみれた無残な姿となって転がっていた。
 持っていた剣心が放り出したのだから、当然と言えば当然の結果なのだが。

 は剣心から離れ立ち上がると、抜き身のままだった刀を鞘に戻して右足の草履を手にとった。
 そしてそのまますたすたと歩き出す。


、そのままで帰るつもりか? 拙者の背におぶさって………」


 てっきり何事か言われるものと思っていた剣心は、の行動に拍子抜けしながらも慌てて声をかけた。
 ここから神谷道場まではさほど遠いわけではないが、それでも足袋だけで歩くには難があるだろう。
 だから自分の背におぶされと、そう言った剣心に、は肩越しに視線をやって。
 ひょいと醤油の樽をその肩に担ぐ。


「無駄な体力は使わない方がいいだろう? これから剣心には、重労働が待ってるんだから」


 満面の笑みが告げた言葉は、剣心の身体を凍りつかせるには充分だった。
 かごごと落ちた野菜たちを拾い、剣心に差し出す。
 顔を引きつらせている剣心は、されるがままにそれを受け取って。


「今日中っていうのは取り消そう。―――明日の昼までだ」


 条件が若干ゆるくなったのは、きっとなりの誠意なのだろう。
 助けてもらったことに対する。
 しかしのその言葉は、今の剣心にとって何の慰めにもならなかった。





2005/05/14 up