9 夢は現の幻か
―――漆黒の闇。
重さも、寒さも、何も感じない。
安定しているのか、不安定なのかさえ感じることはできない。
ただそこに自分が立っていることしかわからない、虚無の空間。
ああ、いつもの夢なのだと。気づくのは目覚めてから。
自身の腕の先さえ明瞭には見えないその闇の中で、自分はただ佇むことしかできない。
目の前の闇が揺らめく。
途端、襲い来るむせ返るような鉄の匂い。
気づけばいつのまにか体中を血糊に染めて、すでに身体の一部のような愛刀を振るっている。
考える必要などなかった。
身体は操られでもしているかのように淀みなく動き続け、止まることなどできはしない。否、そんなことは考えもしない。
聞こえるのは驚愕に響き渡る怒号と、断末魔。
それさえも、いつものことで。
いっそ、血なまぐさいこの場こそ自分の居場所かと。
そんな思考がよぎったのは、この夢の中でのことなのか、それとも現のことなのか。
それでも、動きが揺らぐことはなく。
差し込む光などないはずなのに、刀は薄ら寒いほどに閃いて。
しかし、なんの迷いも躊躇いもなく刀を振るい続けるその腕が、突然何かに掴まれる抵抗を感じて動きを止めた。
『―――っ!!』
乱れもしていない息が詰まり、一切の活動を停止する。
闇の中から伸びる一本の腕。
がっしりと、強い力で自分の右手首を掴むそれを凝視する。
雲間から現れた月の光が漆黒の空間のどこからか差し込んで、その主を照らし出した。
何もなかったはずの空間に浮かび上がった顔。
驚愕に見開かれ、苦痛に血走った瞳。
口からは赤い血液が滴り落ち。
苦しげな息づかいが切れ切れに漏らされる。
『―――……っ』
血糊とともに吐き出される言葉。
かすれ、はっきりとは聞こえなくとも、この耳にこびりつく。
刀の錆を増やすがために踏み込んだはずのこの場所で、聞こえてくるはずがない、それは、懐かしい声で囁かれる己の名。
そんな馬鹿な。
なぜ、こんなところに。
止まっていた心臓が激しく脈打ち、あたりの闇を一瞬の内に赤く染め上げる。
『―――――っ!!』
口を開こうとして、感じた気配に背後を振り向く。
そこには、血溜まりの中に身を沈めた人の姿。
全身を赤く染めて、こちらを見据えている。
(…………ど、して)
かすれる声でようやく呟いた。
けれどそれが、口をついて出ることはない。
身体は硬直し、ただただ詰まる呼吸を繰り返す。
しかし、血溜まりに佇む彼のかたわらに現れた新たな影を見て、その呼吸も止まった。
首から鮮血を滴らせる女の姿。
―――どうして、どうして、どうして、ドウシテ……。
繰り返される言葉が自分の物ではないことに気づく。
―――ナゼ、なぜ、コンナコトヲ?
響く声を掻き消すように、捕らえられていた腕を振り払って刀を振るった。
喉が裂けんばかりの絶叫。
確かに叫んでいるはずなのに、それはなぜか聞こえない。
無音。
静寂の中で、ただ肉を斬り、骨を断つ感触だけが腕に伝わる。
斬り伏せた三つの肉体は倒れ、血溜まりの中に沈んでいった。
何もなくなる。
残されたのは、新たな鮮血に濡れたこの身のみ。
乱れる息、早鐘のような鼓動。
割れそうなほど頭が痛い。
―――忘れたの?
聞こえてきた言葉にびくりと身を震わせる。
気配はない。誰もいない。
それは何もない真っ赤な空間に、否、耳の奥、この頭の中に直接響いていた。
耳を塞ぐことさえできない。何の意味もない。
―――おまえは、ワスレテシマッタノカ?
懐かしい声が。
聞きなれた声が。
耳の奥に響き渡る。
違うのだと、忘れてなどいないと。
言葉はやはり響くことはなく。
目の前に再度現れた三人は、綺麗な姿をしていて。
優しくこちらに微笑んでくる。
―――。
名を呼ばれた瞬間、三人の身体に白刃が振り下ろされた。
止める暇もない。
再び血に染まる彼らの身体。
届かない腕を虚空に泳がせる己に、いつのまにか現れた白刃の主はゆっくりと振り返る。
見慣れた拵えの刀を携えて。
数瞬前までこの手にあったはずの愛刀は姿を消している。
影の落ちた顔で、その口元が薄く弧を描いた。
『―――っ!』
その瞬間、真っ赤だった空間は再び漆黒にかえり、目の前の人物だけが鮮明に浮かび上がる。
『…………』
緋色の髪、十字の傷。
優しげな、少しだけ高いその声。
己の声の響かぬ空間に、ただそれだけが、何重にも木霊した。
*
「―――っ!!」
覚醒と同時に跳ね除けられる布団。
春先の、暑いはずがないこの時期だというのに、背中を伝う冷たい汗。
心臓は早鐘のように脈打っていた。
掛け布団を握り締め、しばし視線が虚空を彷徨う。
「………………」
暗い部屋、障子越しに感じる月の光、時計の音が微かに聞こえて、はようやく詰めていた息を細く吐き出した。
目覚めの瞬間はいつも、夢と現が交じり合う。
まるで、たった今おこった出来事かと錯覚して。
それが夢なのだと、いつになったら気づけるのか。
は乱れた髪を無造作にかきあげた。
そのまま額を抱え、深く溜め息をつく。
しばらく見ていなかったせいか、ひどく疲れていた。
―――ワスレテシマッタノ?
夢の中で響いた声が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。
微かな痛みが頭を襲い、は軽く眉をひそめた。
「………忘れたわけじゃ、ないんだ……」
呟きが、今度はしっかり空気と骨を震わせて自分の耳に届く。
「―――?」
そのとき、不意に障子の向こうからかけられた声に、ははっと顔をあげた。
潜められていたわけでもないのに気配を察することができず、ひどく驚く。
「拙者でござる………ちょっと、いいでござるか?」
「…………剣心?」
控えめなその声の主を知り、は首をかしげながらも布団から這い出て障子を開けた。
いつもと変わらぬ格好で立っている剣心。
床に這う体勢のまま障子を開けたので、思いがけない位置から顔をのぞかせることになり、剣心は少し驚いた顔をしていた。
「どうしたの、こんな時間に」
月はすでにずいぶんと傾いている。
家人が寝静まった家はひっそりと静まり返り、いつもならも剣心もすでに自室で眠っている時間だった。
はとりあえず剣心を部屋に招きいれ、行灯に火をともす。
入ってすぐのところに腰を下ろす剣心を横目に、は袴の上着を肩に羽織って布団の上に座った。
「………すまぬな、こんな夜中に」
頃合を見計らって剣心が呟く。
「別にいいよ、気にしてない。けど、どうかしたのか?」
少しだけいつもと違う様子の剣心に、小首をかしげては尋ねた。
剣心はそれに微笑を浮かべて。
「いや…………ただが、拙者を呼ぶ声がしたような気がしたでござる」
「……………」
表情には出さず、はぴくりと反応した。
剣心の部屋はここの二つ隣にある。
気配を探ろうとすれば問題なくできる距離ではあるが、普通にしていて察することがあるはずはない。
独り言ならば気づくこともないだろう。
けれど。
は先ほどの夢を反芻する。
「…………そうか。寝言、言ったかもしれない。ごめん、起こしたか」
軽く笑って、は寝巻きの合わせを少し整えた。乱れているわけではなかったけれど。
「いや、ちょうど拙者も目がさめていた。―――夢に、拙者がでてきたでござるか?」
そう問われ、少しだけ考えるそぶりをみせる。
「んー、たぶん。それほど印象強いものじゃなかったんじゃないかな。もう、内容も覚えてない」
と軽く笑えば、剣心もつられたように微笑んで、それならいいでござると言う。
「…………」
「…………」
沈黙が二人の間に落ちた。
時計の音だけが、静かな春の夜に響いている。
こんな沈黙はめずらしくはないのだけれど、今夜はなぜかどことなく、剣心の雰囲気に違和感を感じた。
なにかまだ、言うべきことでも残っていそうな、そんな違和感。
それを察したは、そのままじっと剣心を見つめる。
言うか言わないかは剣心が決めることで、自分はそれを待てばいい。
剣心は布団の縁のあたりに視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
行灯の火が、静かに揺らめく。
「………夢を」
二人の影が僅かに揺らめいた時、剣心がぽつりと呟いた。
風が吹けば容易にさらわれてしまうだろう、そんな儚い声。
けれど、この場所に風が割り込むことはない。
空気を彩るのは、遠く微かに聞こえる虫の声だけだ。
「………拙者も夢を見た、でござるよ」
剣心はそれだけ言って、また黙ってしまう。
いったい自分は、になにを話すつもりなのか。
己の見た夢の話など。してどうするつもりなのか。
幼い子供でもあるまいにと。
先ほど自室で考えていた言葉を、もう一度繰り返す。
けれど一度口にしてしまったものを、このまま押し込めることもできなくて。否、できたのかもしれないけれど、したくなかった。
剣心は視線を落としたまま、たどたどしく口を開く。
「昔の……京にいたころの夢だった」
「……うん」
は腰を上げ、剣心の横をすり抜けて障子を開いた。
そのまま縁側に出て足を下ろす。
もうずいぶん傾いた月が、それでもなお煌々と光を放っている。
「あの頃の夢を見るのは、久しぶりでござるよ………本当に、最近は全く見ることはなかったのに」
剣心はまだ部屋の中に身体を向けたまま、まるで独り言のように話を続ける。
も、聞いているのかどうかわからない様子で月を見上げていた。
「新撰組………憶えているでござるか? 一、二、三番隊の組長」
「忘れろというほうが無理だ。全員、例外なく性格が悪かった」
その言葉に剣心が、はははと声をあげて笑う。
「沖田総司はやたら笑顔のわりに人を食ってるし、永倉新八はいい加減そうに見えて妙に抜け目ないし、斎藤一はなにを考えてるのかわからない上にかなり神経が図太い」
すらすらとかつての敵方の批評を口にして、は腕を組んでみせる。
出会うときはいつも刀を持って対峙した。
刃を合わせたことも何度となくある。
交わす言葉さえ簡潔で、たったそれだけの関わりだったけれど、あの頃は刀を交えることが、他のどんなものより深い関わりだった。
どちらも剣に己の命と信念を賭け、この国のために生きたのだ。
「だが、文句なしに強かったでござるよ。特にその三人は」
剣心が懐かしげに言う。
「結局、決着つかずじまいだったなぁ。もう、ほとんど死んだって聞いてる」
は後ろに手をついて上体を預けた。
長い黒い髪が床に落ちる。
「ああ。あれから、十年でござるからな…………」
剣心は感慨深げにそう呟き、また沈黙を落とした。
どこからか、微かな虫の声が聞こえてくる。
風は少し冷たいがさやさやと優しく、心地良かった。
草葉とともに、の髪もまた揺れる。
穏やかで、これ以上ないほどに平和なひと時。
「いつのまにか、見なくなっていたでござる。最近はもうずっと………。それなのに、なぜ今ごろ………」
「剣心」
口を開いた剣心の言葉を遮るように、がその名前を呼んだ。
剣心が後ろを振り返る。
「今日は、三日月だ」
そう、はさらりと言った。
その視線の先を追えば、もう塀の向こうに隠れようかとしている少し太めの三日月。
「……………ああ」
そうでござるなと、剣心はの後ろに立ってそう呟いた。
静かに虫が鳴いている。
月の光はやわらかで、風は少し冷たかった。
穏やかなこの時間は、確かに存在するもので。
自分は今ここにいるのだと自覚する。
驚くほど自然に、剣心の胸の中にあったわだかまりは消えていった。
しばらく二人無言でそうした後、剣心は部屋に戻るとに告げた。
「うん」
は座ったまま剣心を見上げて頷く。
「も早く寝るでござるよ」
「ああ、大丈夫………………剣心」
踵を返し、二つ隣の自室へ戻ろうとした剣心の背中を、が静かな声で呼び止めた。
それに剣心は振り返る。
「………………や、なんでもない。おやすみ」
しばらく剣心の顔を見た後、は真剣な相貌を崩してそう剣心に手を振った。
「ああ。おやすみでござる」
剣心が自室に姿を消す。
それから程なくしても立ち上がり、自分の部屋へと戻った。
後ろ手に障子を閉ざす。
そのまま、しばらく息を詰めて。
とかれた長い黒髪が、俯く動きにあわせて両頬に落ちかかった。
「………………忘れてるわけじゃ、ないんだ」
ぼそりと。ほんとうに、静かな声で。
しかし、頭の中で鳴り響く声に、その言葉は何の意味もなさなかった。
自分に問うてくる声。
忘れてしまったのかと。
それはひどく微かで、幻聴だと自覚しているというのに。
先ほどまで聞いていた剣心の声を飲み込んでしまうほど、強くて。
少しだけ強くなった頭の痛みに僅かに眉をひそめ、静かに息を吐いた。
「………………」
―――ごめんなさい、と。
呟かれた言葉はあの夢と同じように、空気を震わせ響くことはなかった。