8 思わぬ再会
誘ったのはのほうだった。
前川道場を後にして、三人並んで帰路についていた途中のこと。
「寄り道しようか」
と、突然呟いたのは、まったくの思いつきで。
「寄り道?」
「どこに」
首をかしげてこちらを振り返る師弟の反応は、もっともだった。
それでもは、おもむろに左手で袂を探り、手にあたったそれを軽く握って確かめる。
大きさのわりに、重量のあるそれ。
一般的に言ってのそれは決して重くはないのだが、それでもこれなら事足りるだろう。
しばし黙考し、ふむと頷くと、は二人の顔を見て、行こうと言った。
「って、だからどこにだよ! 一人で納得してんじゃねぇ!」
こちらの問いに答えず一方的に歩いていこうとするの背中に、当然のごとく弥彦が吠えた。
突然なにを言い出したのかと思えば、一人でなにやら思考して、その挙句にこれである。
剣心も時おりなにを考えているのかわからないことがあるが、これほど突飛なことはしない。
その点、はといえば、普段でもこんな様子が多々見受けられた。
例えば、いきなり夜中に部屋へ来たかと思うと、無言で握った手を差し出し、受け取れと要求してくる。それにしたがって手をだすと、その上にあるのは美しい音色を奏でている季節の虫で。放す時は草の上にしてやってくれと言い残して去っていくのだ。
そんな不思議な行動にも、ここ最近はすっかり慣れたと思っていたのだが、これには弥彦も薫も戸惑わずにはいられない。
しかし当のは、怪訝な顔をしている二人を振り返り飄々と答えた。
「甘味所。おいしいって評判の店があるって、妙さんに聞いてね。大丈夫。私のおごりだから」
そう言って、袂の財布を探る仕草をしてみせる。
「二人とも頑張ってたからね。差し入れ………ってのは建て前で、私が食べたいんだよ。でもさすがに一人じゃ入りにくくてね。二人につきあってもらおうかと」
女性客の多い甘味所。
刀を提げた袴姿の人間が、堂々と入るにはいささか抵抗がある。
いくら中身は女だとはいえ、やはり姿かたちは男のもの。中性的な外見ながらも、事実を知らない者からすれば、男と言われて疑うことはないのだ。
はいたずらをほのめかすような口調で笑うと、はやく行こうと二人を促した。
評判と言うだけあって、その店はずいぶん繁盛しているようだった。
三人が店に入ったときには全席満員で、空き待ちになるかと思われたが、幸いすぐに席を確保することができた。
「よかったわね、すぐに座れて」
「だな。さぁ、さっさと注文しようぜ」
席に座るや否や、弥彦が机の上のお品書きを引き寄せて品を吟味しはじめる。
やはり育ち盛りのわんぱく小僧は、稽古後ということもあって腹の虫がうるさいようだ。
薫と共に肩を寄せて真剣に選んでいる。
その様子をが見守っていると、不意に頭上が陰りを帯びた。
気づいたが視線をあげ、その主を確かめる。
「…………」
「―――やっぱり! おまえ、じゃねぇか!」
無言のまま相手を見上げていたに対し、男はその顔を見るなり嬉々として声をあげた。
無精ひげを生やした袴姿の、三十代後半になろうかという、少々無骨な印象を受ける男だ。
「………………藤堂?」
しばらく首をかしげていただったが、驚きと喜びの入り混じった表情でこちらを見下ろす男を、しげしげと見つめてからようやく確かめるように呟いた。
それに、男の顔がぱっと明るくなる。
「おう、そうだ。なんだ、忘れやがったのか」
「……………いや、忘れてはいない。おぼえてる」
今の今まで思い出しもしなかっただけで。
顎に手を当てて思案顔でそう告げたの肩を、男―――藤堂は嬉しそうに笑ってバシバシと叩く。
あっけに取られている薫と弥彦のことなど、おかまいなしだ。
「あいかわらずだな、おまえも! いや、しかし三年ぶりか? 篠崎や山倉たちはどうしてる、元気にしてるんだろうな。おまえはなんだってこっちにいるんだ。物見遊山か?」
の横にどっかりと腰を下ろした無精ひげの男は、矢継ぎ早に質問をあびせかけた。
少しだらしないその装いは、腰に刀でも差していれば立派な浪人だ。
けれど男は刀を持たず、代わりに台帳のようなものを吊るしている。
「あんたこそ、とうとう刀を手放したのか」
が視線でそれを指すと男は、ああ、と言って不敵な笑みを浮かべた。
「そんなわけねぇだろう。今はちょっとばかし路銀が足りなくなったんでな。知り合いのところで用利きをしてるところさ。この俺が刀を捨てるわけがねぇ」
廃刀令のでているこのご時世に、胸を張って言うべきことではないと思われるが、男はすこしも憚ることなくそう豪語した。
はその様子に苦笑を浮かべて、だろうな、と頷く。
「ね、ねぇ、さん。こちらの方は…………」
と藤堂のやり取りを見ていた薫が、控えめにへ声をかけた。
藤堂の勢いに、少々圧倒されているようだ。
「ああ、これは―――」
「おっと、自己紹介が遅れてすまねぇな、お嬢ちゃん」
これ呼ばわりしたになにを言うこともなく、浪人のような男は薫と弥彦のほうに身を乗り出して笑った。
豪快な印象を受ける笑みだ。
「俺は藤堂平次。とは、まぁ、ちょっとした旧知の仲ってやつでね。よろしく頼むよ」
開けっぴろげなその態度と、少し煩いほどの声の大きさは、この男の気性をそのまま示しているようだった。
言葉を奪われたが溜め息を落とす。
「おい、おまえもこれ見よがしに溜め息なんぞついてる暇があるなら、さっさと紹介ぐらいしたらどうだ」
「………藤堂、おまえが割り込んできたんだ」
この旧知の仲間には、そんなことを言っても無駄だとわかっていたのだが、はあえてそう呟いてみた。
しかし案の定、男にこたえた様子はない。
それにまた溜め息をついて、は薫と弥彦に向き直った。
「自分で名乗ったけど、こいつは藤堂。旧知………というわけでもないけど、昔の知り合いだ」
あえて藤堂本人を無視してそう紹介する。
藤堂は不満げになにやら言おうとしたが、それを遮っては続けた。
「で、こっちの二人が私がお世話になってる家のご主人とそのお弟子」
「はじめまして、神谷薫です」
「おれは明神弥彦だ」
薫がぺこりとお辞儀をし、弥彦は胸を張ってそう言った。
それに藤堂が目を丸くする。
「弟子?」
「薫さんは神谷活心流の師範代なんだよ。弥彦は神谷道場の門下生」
それを聞いた藤堂は、いっそう目を丸くした。
「ほほう、女子の身で剣術家。それも師範代か。たいしたもんだ」
腕を組み、なにをそんなに感心しているのかうんうんと頷いている。
それを見た弥彦が、憮然として藤堂を見やった。
「おい、おっさん」
ふてぶてしく口を開く。
「なんだ、童っぱ」
薫がたしなめようとしたが、そのまえに藤堂が笑って答えたので、弥彦の、童っぱじゃねぇ! という言葉に遮られてしまった。
それでも弥彦は気を取り直して言葉を続ける。
「薫がたいしたもんだって、あんた昔のを知ってるんだろ。だったら―――っ!」
そこまで言った弥彦は、突然腰を浮かせて押し黙った。
薫と藤堂が不思議そうな顔をする。
ひとりだけが、すました顔で椅子に座りなおした。
弥彦も椅子に沈み、痛みに耐えるように足のすねをさする。
どうやら弥彦の、自分の性別に関する軽い口に封をするため、机の下での足が身動きしたようだった。
「あの、さっき路銀とか仰ってましたけど、藤堂さんはどこかへ行かれる途中なんですか?」
その様子を横目にしながら、薫が藤堂に向き直った。
藤堂は居住まいを正した薫の姿にいささか顔を緩ませる。
「ああ、横浜の実家に顔を出しに行く途中でね」
新しく席に着いた藤堂に茶を持ってきた店員に礼を言い、藤堂はそれを音を立ててすすった。
も湯気を立ち昇らせる湯飲みを口に運ぶ。
「三年前までは京都にいたんだがな。思い立って旅に出ちまったのさ。俺は自由な身だったんでね。こいつみたいに仕事があったわけじゃ――」
「藤堂」
手にしていた湯飲みをタンと置いて、が低く名を呼んだ。
それに口をつぐむ。
隣に座るかつての仲間の気配が鋭くなっているのを感じて、藤堂は僅かに驚きの表情を浮かべた。
視線も向けずに、は立ち上がる。
「さん?」
突然の行動に、薫と弥彦は驚いてを見上げる。
しかしその顔はいつもと同じもので。
「悪いね、二人とも。先に注文して食べていてくれないかな。ちょっと野暮用ができた」
はにっこり笑ってそう言うと、返事も待たずに戸口へと向かった。
その後を、藤堂が当然のように着いていく。
「すぐに戻るから」
という言葉を残して、と藤堂は客がひしめく甘味所を後にした。
*
二人が選んだのは、通りの人波から外れた狭い脇道だった。
他人の目が届かない場所。
藤堂は、端に置かれた桶に腰をおろした。
「………で? おまえは東京でなにしてるんだ?」
答えを得られなかった先ほどの質問を、藤堂があらためて口にした。
が藤堂を連れ出したのは、明らかにあの二人に話を聞かれたくないと思ってのこと。おそらく、仕事の話を彼らにはしていないのだろう。
遅ればせながらそのことを悟った藤堂は、心持ち声を落としてに視線をやった。
しかしは背を向けたまま振り返らない。
「仕事か」
「いや」
話しにくいことなのかと、こちらから振ってみれば即座に返ってくる否定の言葉。
しかも、背中でそう答えたからは、どこか逡巡するような気配が感じられて。
珍しいその反応に、藤堂は訝しげな顔をした。
昔から変わってはいたが、少なくとものこんな様子を見たことはない。逡巡を他人に悟らせるようなことをするヤツではなかった。
久しぶりに会った旧友は、どこか、おかしい。
「なら、なんだってこんなところに」
「―――剣心が、いる」
「………………」
咄嗟に言葉を失う。
わずかに笑みさえ含んだその言葉が持つ意味を、藤堂は知っていて。
かつての仲間の、その驚くほど小柄な背中を凝視した。
その内にあるのは、圧倒的なまでの強さと冷徹さ。
線が細く、一見頼りなさげに見えるというのに、その外見からは想像もできないほどの強さを秘めている。
それはかつて幕末の動乱で、多くの同志たちを守り、最強と謳われた男と唯一肩を並べた人間のものであるのに。
それを知る人間にはこの上なく頼もしく映るはずのその背は今、なぜかひどくはかなく、不安定に見える。
「……………会ったのか」
言葉を選んで、ようやくそう問うた。
すると、微かに苦笑するような気配がして。
「同じところに居候してるよ」
返された答え。
藤堂はまた目を丸める。
彼はすべての事情を知っている。
四年前に起こったことのすべてを承知し、目の前の人間が抱いている望みも知っていた。
だからこそ、その事実に驚かずにいられない。
「、おまえ……………」
「まだ、話してないんだ」
振り返ったは困ったように微笑んでいた。
藤堂はまた口をつぐむ。
一瞬抱いた望みは、脆くも崩れ去る。
やはり、癒されてはいなかったのだと。
その表情を見て思った。
わかりきっていたことだったのだけれど、それでも。
この四年という歳月の間に、少しでも変わっていればと思っていた。
せめて、本人が抱くその望みだけでも変わっていればと。
そしてそう思っているのは、自分だけではないはずで。
「いずれは、話す。もうすぐ、命日だから……………」
けれどそんなことはありえないのだと、あらためて思い知った。
この強い意志をもつ友の深い部分に刻まれたそれは、変質もしなければ消え去ることもない。
「剣心、幸せそうでさ」
きっかけがいるのだと言った。
その言葉どおり、このかつての同志は、命日という期限を迎えることでなんとしても己の望みを果たすのだろう。
それほどに、抱えた闇は深い。
「………………そうか」
それだけしか、言えなかった。
「ああ」
静かな答え。
往来の喧騒はどこか遠くに聞こえて。
引き止めることはできるだろう。
今ここで、声を荒げて、そんなことはやめろと。
もう、いいじゃないかと。
そうすれば、きっと自分は納得できる。
いずれその時が来て、こいつの望みが果たされた時に。
後悔も、自責の念も、感じることはないだろう。
自分はやれるだけのことはやったのだと。そう納得できる。
けれど。
それは、間違いなく自己満足にしか過ぎなくて。
そんなことの為に見苦しく引き止めることなど、できるはずがなかった。
強い意志と覚悟の下で抱いた同志の望みを、それがたとえどんなものであれ、妨げることなどできはしない。
藤堂は、もう戻るよ、と言って去っていくの背中を、無言で見送るしかなかった。