7 次代
「出稽古?」
雑巾を絞りながら、は自分の横に立つ薫を見上げた。
水をためた桶の中に、ばしゃばしゃと水が落ちる。
「そう。いつもお世話になっているところなんだけど、一緒に行きませんか?」
胴着をまとい、防具袋を背負った薫がこちらを見下ろしていた。
「んー、べつに構わないけど、邪魔じゃない? 私が行ったところで、なんの役にも立たないと思うんだけど」
ひねった雑巾を広げて首をかしげる。
もう一往復ほどでここの廊下を拭き終わるところだった。
きりが良いと言えば良いのだが、出稽古に自分がついていっても何もすることが無いと思う。
剣を修めてはいるものの、ここに来てからは一度も剣の稽古などに関わったことは無い。弥彦の相手も、問答無用で飛び掛かってくるのを、やむにやまれず受け流しているだけで。
やっていることと言えば、もっぱら剣心と同様、家事全般をこなすのみだ。
しかし薫は、剣の相手をさせようというのではない、と首を振った。
「ぜひ、見てもらいたいの。弥彦のやつ、さんに相手をしてもらうようになってから、ずいぶん成長しちゃって。だから、弥彦を鍛えてくれたさんに、ぜひその成長っぷりを見てもらいたいのよ」
薫の言葉には、はぁ、と生返事を返す。
確かに弥彦の動きは日に日によくなってはいるけれど。
「でも、私はべつに、弥彦を鍛えてたつもりは………」
ないと言おうとして、即座に薫に遮られた。
「さんがそのつもりじゃなくても、結果的にはそうなってるのよ。ね、だから一緒にいきましょう? それにさんも、毎日家のことばかりじゃつまらないでしょ。気分転換よ」
言いながらが持っていた雑巾を奪い取り、たまたまそこを通りかかった剣心に投げてよこした。
袂を紐でたくし上げた剣心が、それを片手で受け取る。
「おろ?」
「剣心、後の雑巾がけ、よろしくね。さんはあたしたちと一緒に出稽古に行ってくるから」
まだ膝をついているの腕を取って、半ば無理やりに引き寄せた。
はされるがままに立ち上がるしかない。
「出稽古? 、弥彦らに稽古をつける気になったでござるか?」
雑巾を手にした剣心が、意外だという顔でを見る。
彼女に限って、そんなことは有り得無いとわかっていたので。
しかしそんな剣心に答えたのは薫の方で。
「違うわ。弥彦の成長ぶりをさんに見てもらうの。あのコ、ここ最近すごく調子が良いのよ」
嬉々として語る薫に、剣心は顔をほころばせる。
「薫殿も、すっかり弥彦の師匠でござるな。弟子の成長が心底嬉しい様子」
その言葉に薫は、はた、として、ほんの少し顔を赤らめた。
「そ、そりゃあね。あたしだって神谷活心流の師範代ですから。あ、でも、あのコにはあたしが言ってたってこと内緒よ! でないと、すーぐ調子に乗るんだから」
薫が急に師匠顔になった様子がほほえましくて、剣心とは苦笑を浮かべる。
そのとき、そのすぐ調子にのる弥彦が、玄関でまだ行かねぇのかと叫んでいるのが聞こえた。
すでに準備万端整え、薫が来るのを待っていたのだろう。
声の中に、ずいぶんと苛立った空気が感じられる。
「わかったでござるよ、薫殿。家のことは拙者に任せて、はゆっくり見物してくるといい」
弥彦の声を聞いた剣心が、そう頷いてふたりを玄関へと促した。
「悪いね、剣心。ここ、あと一往復もすれば終わりだから」
廊下の隅に立てかけておいた大小を腰に差す。
雑巾を手にしている剣心を振り返り、は苦笑を浮かべて謝った。
それに、剣心が微笑み返す。
「気にすることは無い。も弥彦の勇姿をしっかりみてくるでござるよ」
は苦笑を浮かべたまま頷いて、先に行った薫の後を追った。
*
「やあぁっ!」
「面ーっ!」
踏み込みと、竹刀がぶつかる激しい音が、道場内に幾つも響き渡っていた。
素振りをする者もいれば、立ち合いをする者もいる。
皆、真剣な面持ちで、稽古に励んでいた。
そんな中、床を伝わってくる踏み込みの振動を感じながら、座布団の上で正座をし、のほほんと和んでいる人間が一人。
目は稽古の様子を追っているが、その手には湯のみが握られている。
「…………」
ずずず、と茶をすすって、ほ、と息をついた。
「退屈ですかな」
激しい音の合間を縫って聞こえてきた声は、僅かに笑みを含んでいるようだった。
はそちらへ首をめぐらせる。
ひげをたくわえた、穏やかな相貌をした初老の男性に、にっこり微笑んで。
「いいえ、そんなことはありませんよ、前川殿」
以前は刀を握っていたであろうその手に今は竹刀を提げて、ここの道場主はの隣に腰をおろした。
そのまま、弟子たちが汗する様子を見やる。
「ずいぶんと盛況のようですね、ここの道場は」
先ほど薫に紹介された初老の剣客に、はそう声をかけた。
同じように、道場生たちが竹刀を振るう姿を見ながら。
言われた前川は苦笑して。
「これでも、昔を思えばずいぶん人が減ったのだがね」
と答える。
今度はが苦笑をもらす番だった。
「そんなことを言うと、薫さんに睨まれますよ」
神谷道場の門徒は今のところ二人だけ。
師範代の薫と、門下生の弥彦。
稽古の相手に事欠くふたりは、今現在、ここ前川道場の道場生たちに混じって汗を流していた。
前川はそれに声を上げて笑う。
「それは困りますな。剣術小町の機嫌を損ねるのは、私としても忍びない」
冗談めかした言葉に、も笑った。
一見堅物の豪傑に見える彼だが、人として慕われるべき器を備えた人物のようだ。
先ほど目にした弟子に稽古をつける様や、その身のこなしからして、それなりに名を馳せた剣豪だったのだろうと思う。
笑みを浮かべていた前川は、弟子が持ってきた茶を一口すすると、ふと笑顔をおさめて真剣な面持ちを浮かべた。
「ですが、私は神谷道場がうらやましい」
呟かれた言葉は、どこか哀愁に満ちていて。
は隣に座る剣豪の顔を伺った。
「…………なぜです?」
静かに問い掛けてみれば、まっすぐに弟子たちを見ていた師の顔が、ふと緩められるのを見る。
その視線の先には、一人の小さな影。
「神谷道場には、立派な後継者がいる。才を持ち、剣に対する情熱もある、少年剣士が」
周りよりずいぶん小さいその背中は、しかし決して周囲に紛れることは無い。
大人相手に怯むことなく堂々と向かっていく姿は、確かに剣士と呼ぶにふさわしかった。
「ああ。弥彦は確かに将来有望ですね。薫さんも、師として弥彦が可愛いようで」
素直ではないのですが、と笑う。
「あの年頃の成長は早いものだが、近頃の彼には目をみはるものがある。今日も見て驚いた。以前より、格段に腕を上げている」
今も、身の丈に頭三つ分も差があろうかという大人相手に、見事胴を叩き込んでいる。
生意気な口を叩くこともあるが、確かに弥彦は剣の道に才があるようだった。
「実戦はどんな修練よりも優るという。彼には緋村殿をはじめとして、良い師が多くいるようだ。最近は、あなたが弥彦君の相手をされているとか」
薫か弥彦が話したのだろう。は湯飲みを傾けて苦笑した。
「相手をしているつもりはないのですがね。ただ、彼は一本気だから、無下にあしらうこともできなくて。それに、彼が修めるべきは神谷活心流。私や緋村では、役者不足も甚だしいですよ」
竹刀というのも、どうも苦手で、と付け加える。
すると、それまで微笑んでいた師の顔が、不意に真剣な表情を浮かべた。わずかに目を細めて。
「………殿、あなたは、先の動乱に深く関わられていた維新志士の方とお見受けする」
「………………」
はその言葉に答えなかった。
先ほどまでと同じ、緩慢な動作で茶をすする。
「それも、緋村殿と…………伝説と謳われた人斬り抜刀斎と同じく、維新の中心、激動の京に身を置いた御仁かと」
は湯飲みを手にしたまま、道場を見つめていた。
その目は、ひどく静かな光をともしていて。
「………剣心のこと、ご存知でしたか」
話の中心を避けたのは、無意識なのか、狙ってのことなのか。
の様子から伺い見ることはできなかった。
「私も、今ではこうして刀を手放し竹刀を振ってはいるが、その折には真剣を手に時代を駆けた者の一人。赤毛に十字傷の噂は、一度となく耳にした」
その人物のもつ空気を見極めるぐらいはできるのだと、誇るでもなく言う。
「そしてあなたからは、同じ空気を感じる。見たところ、まだお若いようだが…………」
そこまで聞いて、はやっと相手の顔を見た。
苦笑を浮かべるように、口角が僅かに上がっていて。
「―――いかにも。前川殿が仰られるように、私もその折には、長州派維新志士として幕末の京におりました。歳も、見た目ほど若くはありませんよ。今年で二十と七を数えます」
その告白に、師は少なからず驚いたようだった。
目を見開いて、の顔をまじまじと見ている。
あきらかに、予想していた年齢とかけ離れていたのだろう。
確かにの容姿はどう贔屓目に見ても二十代前半。
男の格好をしながらも、その女性であるがゆえの華奢な身体つきや線の細さはどうしても否めず、それが余計に拍車をかけているのかもしれない。
前川はひとしきり驚いた後、小さく咳払いをすると、ふと顔を正面に向けた。
「殿は、これをどう思われる」
低く落とした、静かな声音。
師の視線は道場を見渡していて、それを指しているのだと察する。
は何も言わず、そちらに視線を向けた。
竹刀の音と掛け声が、煩いほどに響いている。
「こうして竹刀を一心に振るい、稽古に励む者たちの中にも、真剣に剣術を極めようとする者はおらぬ。明治の世になり、剣術は精神修養のいち手段としてしか、人々に求められてはおらぬのだ」
手の中にある湯飲みのあたたかさを感じながら、はだまって前川の言葉を聞いた。
「かつての、剣の道に命をささげようかという気概を持つ者は、もはや見ることができなくなってしまった」
語る道場主の声は、昔を尊び懐かしむ者のそれで。
廃刀令をうけ、刀を手放した今でも彼の心は、剣ひとつで生き抜いてきた剣客のままであった。
そんな人間にとって、この明治の世はどれほど住みにくいだろう。
「私は刀と共に、いずれは真の剣術さえも、滅んでしまうような気がしてならんのだ」
膝の上で握られた拳が、彼の真剣な心情を物語っていた。
刀を持ち、剣術で生きてきた者の憤り。
それは、同じ時代を剣客として生きた自分に対する、彼の訴えであった。おそらくはもう長い間、ずっとその胸のうちに秘めていたのだろう。
はしばらく沈黙を落とし、そしてふと口を開いた。
「―――私は、それでもかまわないと思います」
その言葉に、前川はを見やる。
「真の剣術とはすなわち、刀を振るい、己に害なすものを斬り伏せるためのもの。生きるため、守るためと言えば聞こえはいいが、所詮、人を殺めるための術」
刀は所詮、壊すためのものなのだと。そう言ったのは父だったか。
それでも振るうのならば、使う場を正しく見極めなければいけないと、口癖のように告げていた。
「今までは、それが必要でした。そういう時代だった………」
傷つくことが当たり前だった時代。
強者が弱者を虐げることを、咎めることができなかった時代。
それを変えるために、刀を振るったけれど。
自分は本当に、使う場を正しく見極められたのだろうか。
しかしその問いに答えがでることはなく、それはこの胸の中に深く渦を巻いて沈殿する。
けれど。
「―――けれど、時代は変わった。この明治の世に、人を傷つけるための術など求められるべきではないのです」
激しい動乱と、多くの血流の果てに訪れた新時代だからこそ。
誰も傷つくことのない、泰平の世を。
自分たちはそれを望んで、そのために血を流してきたはずなのだから。
前を見つめるの瞳に写るのは、新たな時代の、新たな剣術の姿。
「では何故、殿はいまだ刀を?」
刀は人を傷つけるための物だと、そう自覚している人間がなぜ、新時代に逆らうようにそれを持ち続けるのか。
前川の問いに、は苦笑とも、自嘲ともつかない笑みを零した。
「………新たな時代を築くのは、私たちでなくていい」
傍らに置いた愛刀に少し触れる。
「新時代に残された影を拭い去ることが、旧時代を壊した者の責任です」
手に馴染んだ感触。
「それにはまだ、これが必要なんですよ」
言ったの目が鋭い光を宿していて。
かつての剣豪は、背につたう冷たい感覚をおぼえた。
それは間違いなく、動乱の世の中心を生きた者の、彼の言う、真の剣術を修め、行使した者の瞳。
「―――殿、あなたは」
「前川殿」
目の前の、意外なほどに小柄で華奢な剣客は、その鋭利な瞳で首だけをめぐらせ、静かにこちらを見やった。
それだけで、老成した剣豪の言葉を押し込めてしまう。
知らず、息を呑んでいた。
自分の子か、ともすれば孫にもなろうかという年の、若者相手に射竦められるとは。
それに気づいたのか、はふと鋭い気配を和らげ、困ったような苦笑を浮かべた。
続いて発せられた言葉は、やわらかさの中にどこか哀愁が感じられて。
「―――剣術は、滅びるのではない。変わるのです。人々が時代と共に、江戸から明治へ変わってゆくように」
その瞬間、ひときわ大きな掛け声が聞こえたかと思うと、激しい打ち込みの音と共に、人が倒れこむ振動が伝わった。
目を向ければ、しりもちをついている道場生と、肩で息をしてそれを見下ろしている少年剣士の姿。
そう、時代は確実に変わり、人々もまた変わってゆく。
泰平の世にあるべき姿へと。
「…………あれが、新時代の望むべき姿です」
まだまだ小さい、けれど溢れんばかりの可能性を秘めた。
新時代を担うべきその姿を、は穏やかな笑みで見つめていた。