6 稽古の一環






 うららかな春の日差しがさんさんと降り注いでいる。
 穏やかな空。暖かい風。
 春も半ばに差しかかり、今が一番いい季節だ。

 ふと視線を移してみれば、黄色い蝶が舞っていて。
 はほうきを手にしたまま、ほどよく晴れた空を見上げた。
 日向ぼっこに最適な、今日はなんとも良い天気。

 が庭を掃くその横では、剣心がここぞとばかりに布団を干している。



「………けんしーん」



 が空を仰いだまま、ほうきの柄に重心を預けて名を呼んだ。



「なんでござるか?」



 布団たたきを手にした赤毛が、吊るした布団の向こうから顔をのぞかせる。
 けれど呼んだ本人に反応はなく。



「…………いい天気」



 数瞬の沈黙の後、ぽつりとそれだけ呟いた。
 別になにを言おうとしたわけでもないのだろう。



「そうでござるなぁ」



 昔と変わらぬその行動に、剣心は慣れた調子で答える。
 ぱんぱんと、布団をはたく小気味良い音だけが響いていた。

 今日は珍しくあの騒がしさの権化ともいえる左之助もおらず、玄斎先生の孫、あやめとすずめも来ていない。
 ここの主人である薫と、その弟子の弥彦は道場にこもっていて。
 居候であると剣心が、すっかり板についた様子で家事をさくさくこなしていた。

 ああ、ほんとうに、今日はなんとも良い天気。




「―――こらぁ! 待ちなさい、弥彦っ!」

「おろ?」

「………?」



 その穏やかな日常を切り裂いて、薫の声がどこからともなく響いてきた。剣心とが、そちらの方向を見てみれば。



「へへーん、捕まえられるもんなら捕まえてみやがれってんだ!」



 道場の方からこちらへ駆けてくる小さな胴着姿が目に入る。
 と剣心は図らずも同じタイミングで、ああまたか、と苦笑した。

 この若い師弟の間で、この手の騒ぎは毎度のこと。
 戯れの一環とも言えるそれに、もすっかり慣れていた。
 なのでいつも通りに暖かく見守ろうかと思っていると、庭に降り立った薫と目が合う。



「―――っさん! そのコ捕まえて!」

「へ?」



 突然叫ばれた言葉に間抜けな声をあげるも、の左手はその反射神経の良さを余すことなく発揮して、今まさに脇を走り抜けようとした弥彦の襟首を掴んだ。



「ぐぇっ!?」



 おかげで弥彦の首は自身の推進力によって絞まる形となり、蛙がつぶされた時のような声をあげてその動きを止める。
 はうなだれた弥彦の身体をネコの子供のようにぶら下げて、駆けつけた薫に差し出した。



「まったく! あんたってコはなんど言ったらわかるのよ。剣術はね、身体や技術だけ磨けばいいってもんじゃないの!」



 にぶら下げられたままの弥彦に向かって、薫は腰に手を当ててそう説いた。
 言葉から察するに、弥彦は精神修養だかなんだかの修練から逃げ出してきたのだろう。しかも、これが初めてではないと見える。
 隣に来た剣心をうかがってみれば、苦笑を浮かべていて。



「薫殿の言うとおりでござるよ、弥彦。真に強い男となるには、頭や心も鍛えねば」



 しかし当の弥彦は、薫と剣心の二人から言われてもそっぽを向き、身体を宙に浮かせたまま両腕を組んだ。



「だからって、いつまでも瞑想ばっかやってられっかよ。薫のくそつまんねぇ話もまっぴらだ!」

「なんですってぇ!」



 怒りに竹刀を振り上げる薫を、剣心が宥めにかかる。
 弥彦はそれを目の前にしても、ふてぶてしいほどに堂々と態度を変えることはない。もっとも、いまだに襟首をつかまれてぶら下げられているのだが。
 弥彦は若さゆえにまだまだ未熟なところが多く見られるものの、この度胸の良さだけはいつ見ても感心する。
 は弥彦の旋毛を見下ろしながら思った。



「とにかく弥彦、今日は拙者やもつきあうゆえ、おとなしく薫殿の授業を聞くでござる」

「………………はい?」



 ひとり傍観者気分で弥彦の頭に視線を落としていたは、なんとか薫を宥めた剣心が発した突拍子のない言葉に、数拍ずれて顔をあげた。
 見れば人のいい、にこにこした笑顔がこちらを見ていて。



「ちょ、剣心。そんなことわざわざしなくてもいいわよ。剣心たちだって家事があるんだし、さんにも迷惑でしょ」



 薫が慌てて言うが、剣心はあっけらかんと、



「家事は授業の後、弥彦にも手伝ってもらえばすぐに終わる。それに拙者もも、前途ある若者の力になれるなら本望でござるよ。なぁ、



 とに向き直る。
 それを見たは、特に断る理由が見つからず。



「薫さんが迷惑じゃなければ」



 と言って頷いた。
 そう言われれば、薫が断るはずもない。



「おいこらっ、剣心に! 余計なことすんなよ!」



 弥彦は抗議の声を上げたけれど、それはことごとく無視されて。
 剣心がの手から弥彦の襟首を刀の鞘の先に受け取って、軽々と肩にぶら下げた。



「さぁ、行くでござる」



 暴れる弥彦もなんのその。
 剣心は平然と道場へ歩き出す。
 その後を、薫は呆れ顔で、は苦笑してついていった。








            *









 神谷活心流。

 剣術流派の名前なんて、無名のところを数えればそれこそきりがないくらいだから、特に気にしていなかった。かく言う自分は、ちゃんと剣術指南は受けていたものの、宗主である父が変わり者だったために流派名を持たないという変わり種だ。
 だからというわけではないのだけれど、その名が持つ意味なんて考えたこともなくて。

 薫は弥彦に対する授業の中で、神谷活心流は活人剣だと言った。

 殺めるためのものではない。
 人を、生かすための剣なのだと。



さん」



 道場の片隅に座るに声をかけたのは、胴着に身を包んだ薫だった。
 授業の後、逃げ出した罰として道場の雑巾がけを命じられた弥彦が、どたどたと目の前を駆けずり回っている。
 剣心は厠へ行くといって先ほど出てゆき、残されたに薫が声をかけたのだ。



「ごめんなさいね、本当に。こんなことにつきあわせちゃって」



 腰を下ろした薫はそう謝った。
 それに首を振って。



「気にしないで。私もお世話になっておきながら、ここの流儀も何も知らなかったから、いい機会だったし」



 笑って答えると、薫も笑い返してくれた。
 ふと、薫の視線が不自然にそらされる。

 なんとなく、何かを言いよどんでいるような、言うのを躊躇っているような、そんな雰囲気だ。
 はそれに疑問符を浮かべながらも、じっとその先を待った。

 なんとなく、声をかけるのも憚られたので。
 しばらく観察していると、思いつめた様子の顔をきっと上げて、薫がこちらをまっすぐに見てきた。



さん」

「うん?」



 その声もなにかの決心に満ちていて。
 なにをそんなに思いつめているのか皆目見当もつかなかったが、とりあえず返事を返す。
 ところが声をかけたはいいものの、すんでのところで踏ん切りがつかないようで、また数瞬の沈黙が落ちた。
 それにも、辛抱強く待つ



「………………さんは、その………どう、おもいますか」

「………どうって、なにを?」



 待った挙句に尋ねられた質問の意味が理解できず、はなおも疑問符を浮かべた。
 一度言ってしまえば勢いがつくのか、薫は先ほどまでの逡巡はどこへやら。僅かに身を乗り出して、の顔を覗き込む。



「うちの流儀についてです。神谷活心流、活人剣、人を生かす剣―――」



 まくし立てるように言い募った薫は、そこまで口にすると不意にそれまでの気迫をひそめて上体を戻した。



「………剣は凶器、剣術は殺人術。前に、そう言われたことがあって」



 僅かに視線を落とす。



「やっぱり、さんのように真剣を持つ人から見たら、こういうのって甘っちょろい戯れ言に聞こえますか? どんなに努力したって、そんなのは偽物かしら?」



 弥彦は必死に雑巾がけをしていて。
 剣心は厠に行って、帰ってこない。

 いま目の前に座っているのは、一流派を担う強き師範代ではなく。家計の一手を切り盛りする、やり手の大家ではなく。
 いまだ二十も数えぬ年頃の、うら若い少女だった。

 その少女の肩に、一流派の看板はどれほど重いことだろう。
 しかも、父から託されたこの道場を守ろうという意志はなによりも強くて。
 それなのに、門弟は一向に増える気配を見せないという現実。
 不安で仕方がないはずだ。

 それでも、自分は師範代で。この家の主人で。
 その彼女の人一倍強い責任感が、弟子の弥彦や思い人の剣心に対して弱みを見せることを思いとどまらせていたのか。
 それでも今それをに見せたのは、女同士だったからかもしれない。

 男の格好をしていても、薫はを女だと認識している。
 幼いころに母を亡くして以来、はじめて同じ屋根の下で暮らす年上の女性なのだ。その上、も女性でありながら幼いころから剣術の道を歩んでいて。

 だからこそ見せた、これは彼女の不安。

 はうつむいたままいつもの元気を見せない薫に、年相応の姿を見てふと頬を緩めた。
 自分は末っ子だけれども、妹とはこういう感じなのだろうかと。
 そして口を開く。



「―――薫さんのお父上は、強いね」

「え?」



 まったく関係のないの言葉に、薫は顔をあげた。
 不思議そうな顔をしていたけれど、は微笑んだまま続ける。



「強くて、立派な方だ。違う?」



 に首を傾げられて、薫は考えるように視線をさまよわせた。



「確かにあたしは父を尊敬しているわ。強かったとも思うけど…………」



 でも、剣心たちのほうがきっと強いと、薫は言った。
 そのまっすぐな気質には苦笑して。



「純粋に技術を問えばね。剣心は幕末最強の維新志士だから………でも」



 そこで言葉を切って一拍おく。
 まっすぐに向けられる薫の視線を、微笑みで受け止めた。



「―――壊すのでも、守るのでもなく、剣で人を生かすと言った。薫さんのお父上を、私は本当に強いと思う」



 それは正直な言葉。
 薫は少しだけ目を見開く。

 きっとこの人も、剣心と同じように幕末の動乱で、たくさんの人を斬ってきただろうに。
 人間の生死を目の当たりにし、甘さの一切許されない辛辣な現実を、その身にしみてわかっているはずなのに。

 向けられる笑みはとても深くて。

 薫の心に、その言葉は自然と入り込んできた。



「剣は凶器云々って言ったの、もしかして剣心?」



 の笑みに見入っていた薫は、問われてはっと意識を戻し頷く。



「え? ええ。そうだけど、でもどうして………」



 不思議そうに首をかしげる薫に、は苦笑を漏らした。
 やっぱりと呟く。



「ああ見えて剣心は厳しいから。口調や雰囲気は昔とずいぶん変わってるけど、そういうところは昔のままだ」



 その顔がどこか嬉しげで、薫は少しだけ胸が締め付けられるのを感じた。



 ―――この人は。




「あのっ、でも、剣心はそのあと、それでも自分は甘い戯れ言のほうを信じたいって、そう言ってくれたのよ」



 薫が弁明のようにそう口にすれば、はまたふわりと笑って。

「ああ、そうだろうね」と。




 ―――この人は、自分の知らない剣心を知っている。




 そこには、どうすることもできない決定的な差があって。
 僅かな焦りが心に浮かび上がるのを、薫は止められない。



「…………薫さんは、昔の剣心を………抜刀斎を、知ってるのかな」



 呟くようにもらされた言葉に、薫は少し目を見開いた。
 微笑を湛えているものの、その瞳はとても静かな光を宿している。
 まっすぐに見据えられては、すべてを見透かされてしまいそうだ。



「一度だけ………。鵜堂刃衛っていう人斬りに、あたしがさらわれたことがあって。その時に………」



 居たたまれなくなって視線を外し、そう答えた。
 あの時は、人斬りに戻ってまで自分を守ろうとしてくれた剣心に、密かに喜びもしたけれど、いまの前で思い出せば後悔しか浮かばない。
 きっとこの人は、自分のようなへまは犯さないだろう。剣心の足かせになるような、無様なまねは。
 そんな薫の思考を知ってか知らずか、視界の端でが言葉を漏らすのが見えた。



「そうか、刃衛を…………」



 剣心が刃衛を知っていたように、もまた、刃衛のことを知っているのかもしれない。
 その表情は、どこか昔を懐かしむもののようにも見える。



「あの、さ………」

「薫さん」



 静かな声だったけれど、薫は自分の言葉を飲み込んだ。
 視線がまっすぐに絡み合う。



「お父上が唱えられた、人を生かす剣。本当に、立派だと思う。私は、剣心のように不殺を誓っているわけではないけれど」



 この腰にある刀は逆刃ではない。
 いつでも、抜けば閃き、振るえば命を奪う。
 それを承知で、この手の内においてあるのだけれど。
 それでも、と。



「これからの剣術が皆、そうであればいいと思う」



 殺すのではなく、壊すのではなく。
 そうであればいいと、こころから。

 そう語るの瞳がひどくやわらかくて。



「…………ありがとう、さん」



 薫が自然と言葉をつむぐと、は一瞬驚いた顔をした。
 そして、またあの優しい笑みを浮かべて。

 こちらこそ、と。

 そう言ったの笑みに、薫はそれきり言葉をつむぐことができなかった。






            *






 卯月も半ば、もう新たな月がすぐそこに見えるころ。
 桜は咲き乱れ、春の色がそこここにみられるものの、いかに暦の上では夏とはいえ、やはり夜ともなればまだ肌寒い日もある。
 自室の部屋の障子を開けると、意外に冷えた風が吹き抜けた。

 しかしそれでも構わずに外へでる。
 部屋の前の廊下は庭に面していて、はそのまま縁側に座り込んだ。
 すぐ横にある柱に身体を預ける。
 月が煌々と照らし出す風景を、ぼんやりと眺めた。



「そんなところにいては、風邪をひくでござるよ」



 わざと気配を消さずに近づいてきた剣心に驚くことはなく、は庭先に視線を漂わせたまま、その動きを気配だけで感じた。
 剣心は当たり前のように隣に腰掛ける。



「…………剣心」

「うん?」



 しばらくの沈黙の後、ぽつりと名を呼んだに、剣心は振り向くことなく返事を返す。
 と同じように、月明かりの照らす庭を見やったまま。



「…………いい月だ」



 昼間と同じように、そう呟いた。
 昔と変わらない、その行動。



「そうでござるな」



 だから剣心は、昔とは違うその口調で、昔と同じように相槌を打つ。

 そういえば十年前は、こんな風にゆっくりと月を眺めることなんてなかった気がすると、剣心は思った。
 それならどうして、あのころの月の記憶があるのだろうと考えてみれば、思い至るのは隣にいる彼女の姿で。
 一瞬の間を見つけては、空に浮かぶ月に、風に揺らぐ草花に、意識を向けて愛でていた。
 そのたびに、そんなものに目を向けるほどの余裕さえなくなっていた自分を呼び止めては、呟く。


 ―――いい月だ、と。


 そうされてはじめて自分はそれらの存在に気づき、そして自分のいる場所を自覚するのだ。自分は確かに、地に足をつけて立っていると。
 そんな昔の光景を思い出して、剣心の顔がほころんだ。

 いまはもう夜半を過ぎた真夜中で、起きている家人はいないだろう。
 さやさやと鳴る梢の音と、微かな虫の声のなかで、時間はゆったりと流れていく。



「剣は凶器、剣術は殺人術って、薫さんに言ったんだって?」



 沈黙を破ったのはだった。
 視線は虚空に漂わせたまま、おもむろに口を開く。



「薫殿に聞いたでござるか」

「うん」



 苦笑しているような剣心に、無表情に頷いた。
 それを見ているのかどうかはわからなかったが、少し身じろぐ気配がして。



「………ここに来たばかりのころにな。もっとも、そのときはまたすぐに旅に出るつもりでござった」



 自分が抜刀斎だと知られてしまったし。
 怖がるだろうと思っていたから。
 けれど。



「どうしていままでここに留まってたの?」



 思考にかぶるように問われた言葉に、剣心は少しだけ迷う。



「…………どうしてでござろう。ただ、薫殿に抜刀斎ではなく、流浪人の拙者にいてほしいんだと言われて」



 そのままずるずると。
 思えば流浪人になってから、こうして一つ所に留まるのははじめてのことだった。
 動き回っている方がを見つけやすいと思ったし、留まればやはり己自身の噂も広まるかもしれなかったので。



「ああ、薫さんに言われたからか」

「おろ?」



 無表情だった声に少しだけ棘を感じて、剣心はの顔を見た。
 表情は変わっていなかったが、なんとなく違和感をかもし出している。



、お主なにか勘違いをしているでござるな?」

「勘違い? なにを」



 こちらに向かって座りなおす剣心を見もせずに、は庭を眺める。



「どうも少し前から変だとは思っていたが…………」



 そうこぼしてから、剣心はまっすぐにの目を見つめて言った。



、よぉく聞くでござる。なにを勘繰っているかは知らんが、拙者と薫殿はなんの関係もござらん」



 きっぱりはっきりと、いつに無い滑舌のよさで語る剣心の真剣な視線は、の横顔に注がれるばかりで、一向に受け止められる気配はない。
 それでも剣心は目を離すことなく、の無表情な瞳を見据えて言葉を続ける。



「薫殿は拙者にとって、妹のようなものでござるよ。薫殿もああ見えてまだ十七の女子ゆえ、早くに両親に先立たれ不安だったのでござろう。拙者を引きとめたのもそういう理由で…………」



 だんだんと言い訳がましくなってきたなと思いつつ、は胸の中で溜め息を一つ落とした。
 こんな弁明じみたことを聞きたいわけじゃない。
 ましてや言わせたいわけでもない。

 立てた片膝を抱え込むようにしてその上に頭を乗せ、少し斜めになった視界で剣心を見た。
 視線が絡まり、剣心は口をつぐむ。
 それを見て、ははじめて頬を緩めた。



「………前にも言ったけど、別に責めてるわけじゃないよ。勘違いもしてない」



 剣心の想いがどこにあるのか、わからないほど野暮天じゃない。
 剣心は十年もの間、なにも言わずに消えた自分のことを捜してくれていた。
 戯れ言のような昔の約束を、おぼえていてくれた。
 剣心の想いが、嬉しくないわけではないのだ。

 それでも、もし、こうして自分が現れなかったなら、きっと剣心はこのままここで生きていっただろう。
 新しい仲間に囲まれて。
 あの約束の日に、剣心が望んだ生き方を。
 きっと、かなえることができるのだろう。


 間違いなくそれは、剣心にとっての幸福で。


 それがわかっているからこそ、自分は剣心のその想いを、受け取るわけにはいかない。


 だって、剣心の幸福を自分は―――。




「―――剣心が幸せなら、それでいいんだ」



 思考とは裏腹に、穏やかに微笑んでみせた。
 それを見た剣心は、少しだけ面食らったような顔をする。



「…………は、幸せでござるか?」



 静かに、真剣に問われた言葉を、受け止めるでもなく、流すでもなく。
 はただ、剣心を見つめて。

 こうして、穏やかな時間を過ごすことができた。
 ふたりで。
 いつ、凶報がもたらされるとも知れない状況などではなく。

 こうして、微笑みあうことができたから。




「―――幸せだよ」



 心から、そう答える。

 これで充分だった。
 望んだ以上のものを、手に入れた。
 自分には、分不相応なほど。
 だから。




「幸せだ」





 もう一度呟くように告げると、剣心はようやく微笑みを浮かべて。

 そうか、と答えた。




「……………剣心」

「ん?」



 またお互いに視線を庭へやって、月明かりの降り注ぐ景色を眺める。
 時おり吹き抜ける冷たい風、それに揺れる梢の音。
 どれもこれもが、ひどく優しい。



「……………………薫さんは、いい娘だと思うよ」



 それらに助けられて、ようやくつむいだ言葉。
 言わなくてはならないと思っていた。
 薫さんの存在を知った時から。

 これからの剣心に必要なのは薫さんなのだ。
 剣心が自分に固執することで、得られるものは何もない。
 それどころか、おそらく失う物の方が多いはずで。
 薫さんが剣心の傍にいてくれるのならば、これ以上のことはない。

 だから、言わなくてはならないと思っていた。
 それでもいままで引き伸ばしたのは、少なからず自分の中にある剣心に対する想いのせいで。



「ああ、拙者もそう思うでござるよ」



 肯定されて、少しだけ揺らいだ自分の心に嫌気がさす。
 自分はまだ、こんなにも未練を残しているのかと。
 再会する以前に、こんな感情はとっくに振り切ったと思っていたのに。
 自分の中の女に、嫌悪を抱く。
 けれど。



「なにせ、三人もの居候を抱え込んでしまうぐらいでござるからなぁ」

「…………………」



 見当違いの言葉を返す野暮天男に、軽いめまいを覚えた。
 ようやっとのことで告げた言葉のつもりだったのに。
 その意味は、正しく理解されなかったらしい。
 ことごとく、人の努力を無駄にしてくれるものだと。
 そう心の中で悪態つきながらも、どこか穏やかになる自分を自覚する。





 もう少しだけ。




 もう少しだけ、いいだろうか。
 この幸せを、もう少しの間だけ感じても。




…………拙者は、約束を違えるつもりはないでござる」




 心持ちうなだれたに、剣心は真剣な眼差しでそう告げる。
 そういえば昔から、外見に似合わず頑固なところがあったなと、今になっては思い出した。
 胸の奥を締め付ける問いに答える声は無い。けれど、夜はとても静かで優しかったので。

 剣心の腕に、促されるまま。

 見た目よりもずっとしっかりしたその肩に、軽く額を押し付けた。



「―――ありがとう」



 こんなにも優しい夜を、自分は知らない。





2005/02/27 up