5 夜、神社、祭り
気づいたのは、左之助に連れられて初めて神谷道場に来たその日。
確信をもったのは、その次の日だった。
ふつうなら気づきそうもない、小さな小さなことだったと思う。
何気ない動作の端々や言葉の色に含まれる、微妙な気配とでも言うか。
それでも自分の中にある、世の男性には持ち得ないであろう、ある感覚がそれを敏感に察知して。
そう、女の第六感が。
間違いないと、告げたのだ。
あの、薫さんが剣心を見る瞳…………。
間違いなく、恋する女の瞳だと。
こんなとき、改めて自分は女なんだと自覚する。
戦いの中で駆使するそれとは根本的に違う、独特の勘というかなんというか………。
特に色恋に関して恐ろしいまでの鋭さを発揮するそれ。
いままでほとんどそんな経験をしてこなかったというのに、それは本人の意思とは無関係にばっちり発達してくれていたらしい。
本当に、思わず頭を抱えたくなる。
もちろん、べつに男になりたいわけではないし、女であることを疎んじているわけではない。
ただ、少々風変わりな剣客であった父のもと、兄と共に剣を学んでいたが為に、着物よりも袴姿が板についてしまっただけで。
たまたま、十二か三ほどで維新に組し、男所帯の中で刀を振るってきただけで。
だから自然と、世の女性たちとは一風変わった生活環境で育つことになっただけであって。
決して、女であることを捨てたとか、男として生きたいと願っているわけではないのだけれど。
ただ、周囲から男として扱われることに慣れすぎて。そっちの方が何かと都合が良かったことだし。京にいた頃などは、わざわざ誤魔化さなくても刀を持てば勝手に勘違いしてくれて、自分もそれを否定しなかったものだから。
だからついつい、ふとした瞬間に自分の女を自覚したときなど、思わず戸惑ってしまうのだ。
そうして今回も、それはおなじで。
その上、今回はやたらと面倒な領域でそれを自覚してしまったので。
頭を抱えたくなるのも無理はない。と、思う。
ましてやこんな状況を見せられれば、尚のこと…………。
今夜近くの神社で屋台が出ると声をかけたのは、長い黒髪の綺麗な女性だった。
神谷家にお世話になってから、初めてお目にかかる人で、向こうも庭先で洗濯物を干していたを目にとめて、不思議そうにしていた。
その場にいた薫さんの紹介によれば、彼女―――高荷恵は玄斎先生の助手をしている有能な女医さんだという。
高荷という名に、あの会津の、と口にすると、恵は少し悲しげに笑って、そうよ、と答えた。
高荷家の境遇をいくばくか知っていたは、悪いことを聞いたと謝ったが、恵は気にするなとにっこり笑う。
だからも微笑み返して、と名乗った。
恵は往診の合間を利用して伝えに来たらしく、夜の約束を取り付けるとすぐに仕事へ戻ってしまった。
にわかに色めき立ったのは弥彦と薫で。
元気のいい師弟は、ひどく楽しそうに目を輝かせていた。
そして夕刻。
出かけるのを今か今かと待つ弥彦と、余った僅かな時間で茶をのんびりすする剣心と。
そこに、艶やかな浴衣を着た薫が颯爽と現れたのだ。
「見て見て、剣心!」
そう言って笑う薫は、から見てもかわいらしく。
ちょうど裏口から現れた左之助も、薫の姿を見て感心したように言葉を漏らす。
「ほぉ〜、嬢ちゃんもなかなかやるじゃねぇか」
いつも薫を怒らすようなことしか言わない左之助の珍しい言葉に、薫は嬉しそうにくるりと一回りしてみせる。
「でしょ。だてに剣術小町って呼ばれてるわけじゃないのよ」
いつものノリで元気よく胸をはった。
けれどその瞳が他の誰でもない、剣心の言葉を期待していることをは目ざとく見抜く。
ふと、口元に笑みが浮かんだ。
正直で純粋な薫の様子が、とてもかわいらしくて。
「馬子にも衣装、だな」
「なんですってぇ!」
弥彦の言葉に、拳を振り上げる薫。
ふと隣に座る剣心を見てみると、その様子をいつものように笑って見ていた。
弥彦と薫がどたばたと争っているうちに時間が過ぎたらしく、左之助が庭先に立ったまま声をかける。
「おい、そろそろいかねぇと、あの女狐が怒り出すぜ」
女狐というのは、十中八九恵のことだ。
剣心が左之助の言葉に時計を見上げて。
「おろ、もうそんな時間でござるか。さぁさぁ、弥彦、薫殿。恵殿を待たせてしまうでござるよ」
なおも言い合いを続ける二人を仲裁する。
先に行動を起こしたのはすばしっこい弥彦で。
さっと踵を返すと、やーい、といいながら庭に走り出てしまった。
「あっ、もう! 弥彦のやつ〜!」
逃げられた薫がわなわなと憤りに震える。
そんな薫を苦笑しながら宥め。
「まぁまぁ、薫殿。その浴衣、薫殿によく似合っているでござる」
その言葉に、薫の顔が一気に満面の笑みを浮かべる。
頬はほんのり桜色。
ひどく嬉しそうに駆け出すと、早く行こうとせかした。
その変わりぶりに、目をぱちくりさせる剣心。
「、拙者たちも行くでござるよ」
左之助はすでに歩き出していて。
剣心は立ち上がりかけていたを振り返った。
腰に刀と脇差を差す。
また官憲に見つかるかもしれなかったが、手放すつもりは毛頭ない。
それは剣心も同じようで、腰にはいつもの逆刃刀が提げられている。
「夜店なんて、久しぶりだ」
「そうでござるな」
がこちらへ来るのを待って、二人並んで歩き出した。
他愛もない言葉を交わしながら。
*
それと気づき、確信するまで、要した時間は数秒かそこらだった。
薫のときとは比べ物にならないくらい速かったのは、彼女がそこそこ大人の女性で、また、したたかな上に勝ち気なその性格ゆえだろう。
「あら剣さん、あっちにあるのは何かしら」と。
さり気なく腕を絡ませるその技巧。
充分にかもし出されるその色気。
どこをとっても完全に大人で、女性で。
薫には到底出来そうもない手練手管を、わんさか持っていそうだ。
もちろん、にもかなうはずがなく。
なんて言ったって、こちらはダンビラを提げた袴の剣客。
向こうはしっとりとした色使いの浴衣を纏った、艶かしい女性。
まぁ、もとより張り合うつもりはないのだけれど。
それに、どうやらその行動は、少なからず薫をからかう意味合いも含まれているようで。
案の定、薫が恵と剣心に向かって、離れろ、と叫んでいる。
「あーら、心配しなくていいのよ。剣さんにはあたしがちゃんとついてますから。あなたは屋台でも見てらっしゃいな」
「けっこうです! 剣心はあたしと一緒にまわるのよ!」
「色気より食い気の小娘が相手じゃあ、剣さんがかわいそうねぇ」
ほほほ、と高笑いする恵。
その頭には確かに狐の耳が見えた気がした。
ゆるゆると歩を進めながらも、ふたりは言い争いを続けていて。
肝心の剣心は一行から少し離れた後ろで、苦笑しながら眺めているばかり。
自然と、肩を並べる形になって。
「ずいぶんと賑やかでござるなぁ」
剣心が、前方の争いなどどこ吹く風で話しかけてきた。
もそれに笑って答える。
人々の喧騒と、どこからか聞こえる笛や太鼓の音。
もう陽は落ちているのに、この辺りだけ煌々と明るい。
行き交う人々の顔は、みんな楽しげにほころんでいる。
「そういえば、あやめちゃんとすずめちゃんは?」
ここまで一緒に来ていたはずなのに、見当たらないことに気づいてが首をかしげた。
「弥彦と玄斎先生に連れられて、先にいったでござるよ」
「ああ、なるほど」
納得して苦笑する。
ゆったりとした歩調に焦れてしまったのだろう。
子供の体力は、時に大人をものともしない。
見れば、弥彦の姿も確かになく。
いつのまにか薫や恵、左之助たちからも距離が広がっていた。
ともすれば、人ごみにまぎれてしまいそうだ。
「こうしてふたりで歩くのも、久しぶりでござるな」
剣心がぽつりと言う。
「十年ぶりぐらい? ああでも、こんなにのんびりしたのは初めてか」
以前は、肩を並べて歩いても常にその手は刀に添えられていて。
思い出して、ふっと笑う。
「は、浴衣は着ないでござるか?」
不意に言った剣心の言葉に、は少し眉を上げた。
見れば、剣心の目がこちらに向けられている。
本気で言っているのだとわかって、は苦笑した。
「薫さんに進められはしたんだけどね、今更だよ。女の格好なんて、もう何年してないことやら………。きっと落ち着かない」
むしろ、生まれてこのかた、数えるぐらいしかした覚えがない。
家にいた頃は、大体が家族―――主に父と兄―――にせがまれていたしかたなく。
京にいた頃は、幕府側から身を隠すために一度。
どれも居心地が悪かったのをおぼえている。
そう言ったの横顔を見て、剣心が笑った。
「相変わらずでござるな、は」
安心しているのか、呆れているのか微妙なところだ。
いつのまにか人ごみを離れ、自然と神社の境内の方へ足が向いていた。
祭りの明かりや喧騒が少し遠のき、二人は境内に腰を下ろす。辺りに人の気配は感じられない。
虫の声が、近くに聞こえた。
「…………剣心は」
「ん?」
しばらくの沈黙の後、が不意に口を開いた。
木立の向こうからちらほらと見える、祭りの明かりを眺めながら。
同じようにそれを見やった剣心は、少しだけ、京の祇園の祭りに似ているかもしれないと思った。もっとも、規模が天地ほども違うけれど。
祭りの記憶と言えば、それが一番強く印象に残っていたので、昔を懐かしむように目を細める。
しかし。
「ずいぶん、モテるようになったねぇ」
「…………おろ?」
の声音が変化していることに気づいて、剣心は隣を見た。
口元には、微笑みとは微妙に違う笑みが浮かんでいて。
「薫さんとずいぶん仲がいいみたいだし」
は腰かけていた境内から立ち上がり、数歩足を進める。
「恵さんにも迫られて、剣心もまんざらでもないみたいだし?」
その後ろ姿をぽかんと見ていた剣心は、はっとして立ち上がった。
慌ててに近付く。
「っ、、それは誤解でござる。拙者は…………」
剣心は必死で弁明をしようと口を開いたのだが、はそれを見越していたかのように、ゆっくりと振り返って剣心を見た。
視線がぶつかり、剣心は思わず口をつぐむ。
「―――べつに責めてるんじゃない。ちょっとからかっただけだよ」
ふわりと微笑む。その笑顔がひどく柔らかで。
「…………幸せそうで、安心した」
剣心は咄嗟に何も言えなかった。
その頭の中を、焦りにも似た感情が駆け巡る。
呆然と佇む剣心には苦笑して、そのまま踵を返した。
もう戻ろう、と言いながら。
「――――っ」
歩き出そうとしたの身体が、不意に抵抗を感じて止まる。
「……………剣心?」
不思議そうに振り返る。
その左手首をしっかりと握っているのは、紛れもない剣心の右手。
自分でも全くの無意識だったその行動に、剣心自身も思わず目を丸くする。
けれど、このまま手を離すことはできなくて。
「どうしたの、急に」
「……………」
はこちらに向き直り首を傾げるけれど、剣心には答えられない。
ただただ、この手を離してはいけない気が、して。
「………、拙者は―――」
なにか言わなくては、と開いた口からこぼれた言葉。
しかしそれは、しっかりとの手首を掴む剣心の手に添えられた、自身の右手によって遮られる。
その動作にしたがってゆっくりと離された手を、はそっと下へ下ろしていって。
そしてまた微笑んだ。
「皆がさがしてるかもしれない。薫さんにまた心配かけるよ」
いつもと同じ声音。
そのことに剣心は戸惑うけれど、それさえも軽く流してしまう。
歩き出したを、今度は止めることができなかった。
佇んだままの剣心を振り返る。
その背後には、木立の隙間から漏れる明るい祭りの喧騒が揺れていて。
「あ、あ………そうでござるな」
戻ろう、といったの言葉が、なぜか耳について離れなかった。
『もう一度、あの明かりの下へ』と、そう言っている気がして。
本当に暖かな光など、遠いものだと思っていたのに。
は確かにその光を指差して、自分を手招いていた。
剣心も微笑む。
昼なお薄暗いこの場所に、留まっている必要など無いのだと、そう言われている気がした。