4 例えばこんな生活風景
神谷道場の世話になるようになってはや二週間。
今日も今日とて剣心は家事に勤しみ、薫と弥彦は稽古に励み、左之助はメシをたかりに、診療所の玄斎先生は孫娘二人を連れて、縁側に集まっていた。
神谷家の食客第三号となったは、目下のところたいした仕事もなく、仕方無しに縁側に座り茶などをすすっている次第である。
「きゃーっ、みてみて、兄!」
「みてみて!」
まったりと庭先を眺めていると、玄斎先生の孫であるあやめとすずめが、手や顔に泡をいっぱいくっつけてこちらに駆け寄ってきた。
「うわぁ、すごいね。泡だらけだ」
「あわだらけ! あわだらけ!」
すずめが嬉々としてぴょんぴょん飛び跳ねる。
「剣兄はもっとすごいの!」
「ねこさん!」
「ねこ?」
首をかしげてふたりが指し示す方を見てみれば。
「…………ぶっ」
「ひどいでござるよ、…………」
頭に三角形の泡の塊をふたつ乗せた剣心が目に入り、思わず口元を押さえて横を向いた。
「ご、ごめ………だって………」
は眦に涙を浮かべながら、苦笑している剣心を見やる。
洗濯の樽を前に、腰に刀を提げたままで頭には泡のねこ耳。
とてもじゃないが笑わずにはいられない。
あやめとすずめはきゃらきゃらと笑い転げ、はそれを見ながら声を殺して笑った。
「おい、!」
落ち着こうとして湯飲みに手を伸ばしたところで、背後から声をかけられそちらを振り向く。
そこには、胴着に身を包んだ弥彦の姿。
なぜかその目には、やたら好戦的な炎が揺らめいている。
「あー、なに? 弥彦」
稽古の余韻からか、惜しみなく撒き散らされる闘気を感じながら、あえてのほほんとたずね返した。
湯飲みを膝の上で支えたまま。
「今日こそおまえに刀を抜かせてやる! 覚悟しやがれ!」
ビシリと竹刀を突きつけられて。
それをしばし眺めた後、はおもむろに茶をすすった。
ああ、緑茶がおいしい。
「オイッ! 無視すんな!」
弥彦の額に青筋が浮かぶ。
はやれやれと苦笑して、脇に置いていた刀を持って立ち上がった。
「おめぇもこりねぇヤツだな。かなうわきゃねぇだろうが」
「うるせぇ、左之助!」
食事を終えた左之助が、口に楊枝をくわえながら縁側に出てきた。
そして、どかりと腰をおろして膝の上に顎をつく。
「やってみなきゃわかんねぇだろうが! 剣心の次に強くなんのはおれなんだからな!」
威勢良く叫ぶ姿は逆にほほえましくて。
がくすりと笑うと、弥彦に咎められた。
「笑うな、!」
ぎゃんぎゃんと煩い会話も、慣れれば意外と心地いい。
ここには人のあたたかさがある。
安らぎと、ほほえましさと、明るさと。
かつては遠かったその全てが、ここにはある。
剣心はいい場所を見つけられていたのだと、少し安心した。
「はいはい、笑わないよ」
苦笑しながらそう言うと、まだ笑ってると言って怒られた。
刀を腰に差し、のんびりした足取りでそちらへ向かう。
その間にも、若い殺気がビシビシ飛んで来ていたのだけれど。
「でも弥彦、強くなるのは剣心の次でいいの?」
向かい合うなり打ち込まれてきた面打ちを軽くかわして尋ねてみた。
刀は腰の鞘に収められたまま、左手はその上に力なく置かれていて。
なんともやる気のない体勢で弥彦に対峙する。
「剣心は最強なんだ。だれにも負けねぇ。だから俺がなるのは世界二の男だ!」
ああ、なるほど。と、は納得した。
弥彦にとっては、剣心が一番なのだ。
剣心を語る弥彦の目は、その人柄と、強さに心底ほれ込んだ者の目だ。
剣心が負けることなど想像もしない。
それがたとえ己であっても、負けることなど許されないのだ。
(だから剣心が世界一で、自分が世界二ね)
そのまっすぐな心に、思わず笑みがこぼれる。
すると一段と鋭い突きが来て、それを右手の指で押しとめた。
「てめぇ、いま馬鹿にしただろ」
「してない、してない」
言ったものの、顔は苦笑を浮かべていたらしく、結果、弥彦を煽ることになる。
子供ならではのエネルギーを糧に繰り出される攻撃をことごとくかわしながら、懐かしげに目を細めた。
「私にもそんな頃があったなぁ、と思ってね。誰かに傾倒してた頃が」
その剣に惚れ込んだ。
いつか肩を並べたいと、躍起になって修行した。
せめてその目の端にでも留めてもらえるようにと。
今思えば、盲目的だったとさえ思う。
けれどそれはもう、遠い昔の思い出に過ぎなくて。
「にしても、実際あいつの実力のほどはどうなんでぇ、剣心」
のんきに弥彦との打ち合いを眺めていた左之助は、洗濯物を干し終えて戻ってきた剣心に声をかけた。
「でござるか?」
問われた剣心が、ふたりの方へ目をやる。
猪のように突進している弥彦に笑みを浮かべて。
「強いでござるよ。剣を交えれば拙者でも、無事ではすまぬでござろうなぁ」
「あぁ!?」
さらりと言った剣心の言葉に、左之助は目を丸くした。
「どうしたの?」
「薫殿」
縁側に、胴着姿の薫が汗を拭きつつやってくる。
庭先で打ち合っている弥彦たちに目をとめ、呆れ顔で溜め息をついた。
「弥彦ったら、またやってるのね」
ムリだからやめときなさいって言ってるのに、と呟く。
さすが一流派の師範代をつとめるだけあって、弥彦がかなわないであろう事を見極めるのは難くない。もっとも、いまの状況を見れば誰でもそれを読み取ることができるだろうが。
「お、なんだ嬢ちゃん、わかってるじゃねぇか」
しかし左之助は、めずらしく素直に薫のことを褒めた。
「まぁね。だてに神谷活心流師範代をしちゃいないわよ」
誇らしげに胸をはってみせる薫。
「俺はてっきり、師弟そろって猪突猛進かと…………」
「なんですってぇ!」
左之助の言葉に、薫が竹刀を振り上げた。
剣心はそれに苦笑を浮かべるしかない。
「それにしても、おめぇと張るぐらいの強さってのは本当なのかよ、剣心」
薫の竹刀をやすやすと受け止めた左之助が、剣心の方を見やった。
それに、薫も攻撃の手を休める。
「そんなに強いの? さんって」
興味津々なふたりの視線を受けて、剣心は少し困ったように笑みを浮かべる。
どこまで話すべきか、逡巡しているようだ。
「でもさんって、女性でしょ?」
薫が首をかしげる。
が神谷家に居候することになった日。薫と左之助は改めて性別の真偽を確かめたのだ。
本人に聞いてものらりくらりとかわされるのはわかっていたので、昔からの知り合いだという剣心に詰め寄った。
『で!? どっちなの、剣心!』
『素直に答えやがれ』
『お、おろ〜』
胸倉をつかまれてがくがくゆすられる剣心は、目を回したままなんとか口を開く。
『せ、拙者にはなんとも……本人はなんと言っているでござるか〜?』
その本人は今、弥彦と共に旅籠に置いたままの荷物を取りに行っている。
だからこそ、こうして大っぴらに詮索することが出来るのだ。
『本人に聞いても答えやがらねぇから聞いてるんだよ』
『そうよ! 剣心なら知ってるんでしょ!?』
『おろ〜』
前にも増してゆすられる剣心に、茶の間の入り口の方から呆れたような声がかかった。
『いいよ、べつに話しても。隠してるわけでもないし』
見るとそこには、荷物と言うほどでもない小さな風呂敷包みを持ったと、道に迷わないようにと一応ついていった弥彦が立っていて。
『あ、あら、さん。これは…………』
話題の張本人と目が合って、薫は頬を染めて剣心を開放した。
左之助も一緒に手を離したので、剣心は床に頭を打ち付けることになる。
『お、おろ〜………』
ぴよぴよと星と小鳥を頭上に飛ばす剣心。
それに苦笑して、は笑顔で薫と左之助を見た。
『本名は。は昔使ってた偽名でね。こんなナリをしてるけど、一応は女ってことになってる』
こんなナリと言うのは、袴姿で帯刀した、いわゆる剣客姿。
呆然とする左之助と薫、そして男だと思っていたのであろう弥彦に、そっちの方が呼ばれ慣れているからと、のままで通してほしいと言った。
そして、現在にいたるのである。
実際のところ、の立居振る舞いは男らしいところが多々あり、男と言われたならば、そのまま信じてしまうだろう。
それも、昔の名残なのだとは笑って見せた。
男と偽ったことはないが、名前を変えるだけで皆、男と思い込んでしまっていたのだと。
後に左之助が、はっきり答えなかったことを問いただすと、
『人を手土産あつかいした仕返しだよ。あの後、薫さんにでも聞かれていれば答えたんだけど』
と言ってのけた。
の相変わらずの反応に、剣心は苦笑するばかりであったという。
剣心はふと目を細め、過去を思い起こすような顔をして言った。
「真剣に立ち合ったことはないが、がひとたび刀を取れば、そこらの男などでは相手にもならなかったでござるよ」
維新志士といえば、だれもが腕に覚えのある剣客たちであっただろうに、その男たちの中で女だてらにそれほどの強さをほこるとは。
左之助も薫も、剣心の言葉に思わず目を丸くする。
「へぇ、大したもんじゃねぇか」
「ほんと。そんなにも強いなんて思わなかったわ」
妙に感心するふたり。
すると、剣心が面白いことを思い出したとでも言うように、嬉々として口を開いた。
「そうそう。が皆に男と思い込まれたのも、剣の腕はもちろんでござるが、その男顔負けの……………っ!」
しかしその言葉は最後まで口にされることはなく。
にこにこと笑っていた剣心の後頭部に、ゴッ、という鈍い音をたててなにかが直撃した。
「剣心!?」
「お〜ろ〜ぉ………」
へなへなと崩れ落ちる剣心の後頭部には、見事なまでにふくらんだ立派なコブが。
その隣には、一本の刀が鞘に収められたまま転がっていて。
庭の方から地を這うような声が響いてきた。
「け〜んし〜ん、余計なことをべらべらと………」
弥彦の竹刀を後ろ手に受けながら、がこちらを向いて立っていた。
その腰にさっきまで提げられていたはずの刀は、影も形も見当たらず。
どうやらその位置から、自分の刀を鞘ごと投げつけたらしい。
黒い影を背後に湛えるの気迫に、剣心の身体を抱えている薫や、そのそばにいる左之助まで腰を引く。
「す、すまぬでござるよ、…………」
いまだ目を回したまま、なんとか謝罪を口にする剣心。
しかしの怒りは治まる気配を見せず。
「ちょっと見ないうちに、ずいぶんと口が軽く………」
「オイこら、てめぇ!」
なおも剣心に脅しをかけようとしたに、後ろから弥彦の怒声が飛んだ。
振り返って見てみれば、怒り心頭といった面持ちで、竹刀をこちらに突きつけている。
「刀投げちまってどうすんだよ! おれはおまえに抜かせるって言っただろ!」
こちらの攻撃を見ることもせず軽々と受け止め、あまつさえ自分以外の人間に攻撃を加えたに、弥彦はたいそうご立腹のようだ。
怒りを表す額の青筋が、いつもの三割増しで浮かんでいる。
「あ、ごめん。つい…………」
「ついじゃねぇ! まじめに相手しやがれ!」
噛みつかんばかりの勢いで抗議する弥彦。
しかしそれも、こうして手合わせをするたびに見られる光景なので、は平然と見下ろすばかりだ。
「まじめにってそりゃムリだ。おめぇの手にゃ負えねぇよ」
「そうよ。なんて言ったって、さんも剣心と同じ維新志士なんですからね」
左之助と薫が口々に言うのを聞いて、弥彦はむくれたようにそっぽを向く。
けっ、なんでぇ、と呟きながら。
それを見たがふと笑いをおさめ、おもむろに弥彦の頭に手を置いた。
なんだよ、とこちらを睨んでくるが、それでも手を下ろさない。
「かつての維新志士が皆、強いわけじゃない。明治に入ってからこちら、私腹に肥えて堕落していく奴らも多いんだ。そんな奴らより、私はいまの弥彦の方がずっと強いと思う」
まっすぐにこちらを見下ろしてくるの目が、ひどく真剣でやさしくて、弥彦は思わずその瞳に見入ってしまう。
剣心は黙って二人の様子を見つめていた。
「弥彦は、どうして強くなりたい?」
微笑まれたままそう尋ねられて、弥彦ははっと我にかえる。
そして威勢良く、胸を張って答えた。
「そんなの決まってる! 強くなって、この剣で弱いやつらを守るんだ!」
弥彦の目はひどくまっすぐで、曇りのない光を宿していて。
は少しだけ目を見開いて、またふわりと笑った。
そして、心から言う。
「そうか………弥彦は本当に強いなぁ」
ぽんぽんと軽く頭を叩いてから、は踵を返した。
しばらく呆然としていた弥彦があわてて、また相手してもらうからな! と叫ぶのに手を振って返し、剣心に向かって投げつけた自分の刀を拾いに向かう。
「、おぬし…………」
先に刀を拾い上げた剣心が手渡してくれるのを受け取って、はふっと微笑んで見せた。
剣心が聞こうとしていることを、牽制するように。
「なんでもないよ」
きっぱりとした口調でそう言われては、剣心も黙るしかない。
もとより、聞いたところで答えが返ってくるとも期待していなかったが。
「さて、剣心。洗濯物終わったんなら、買い出しにつきあってね」
明るいの言葉に、その場の空気が一変する。
またいつも通りの空間が戻ってきて。
「ああ、かまわぬよ。なにを買うでござるか?」
剣心もいつものように朗らかに笑って聞いた。
のなんでもないはあてにならないが、聞かれたくないのなら無理には聞くまいと。
しかし次にから放たれた言葉は、剣心を一瞬で石化させるに充分な力を持っていた。
は剣心にくるりと背を向けておもむろに言う。
指折り数えながら。
「塩と砂糖、それにみりん、ああ、酒もついでにね。ええとそれから………」
「―――ちょ、ちょっと待つでござる、!」
腰に刀を差してすたすた歩きだすに、あわてて追いすがる剣心。
「なに?」
振り向いたの顔は、満面の笑みで。
しかも、先ほどまでのやさしさの溢れるものとは少し違う。
「買い物にはつきあうが、何故そんな重いものばかりまとめて買うでござる」
その笑顔には見覚えがある気がして、剣心は内心冷や汗を浮かべながら、微笑むに聞いてみた。
ほら、その顔なんて、すごく見たことがある。
笑顔の裏から滲み出る、黒い気配がこちらをひしひしと威圧して。
確かこれは、仲間内で最も恐れられていた『無情の笑み』。
を怒らせた後に訪れる、報復の宣告。
「決まってる。剣心に持ってもらうためだよ――――軽く口を滑らすほど、体力が有り余ってるみたいだから」
にっこりと、満面の笑み。
その目だけが、異様に鋭い光を放っていて。
ああ、なつかしい既視感。
滅多に見せることはなかったが(いちど見せられてから、全員がの怒りに触れないよう、心がけたため)、その報復はひどく陰湿だともっぱらの評判だった。
そのときばかりは、まるで女のようだと噂がたつほどに。
さっさといくよー、と歩き出したの背中にそれ以上声がかけられず、剣心は冷や汗を滝のように流しながらふらふらと後を追う。
「………おい、剣心。のありゃなんだ?」
が放つオーラの異様さに気づいた左之助が、声を落として剣心に囁きかける。
額には一筋の汗が。
「………左之も気をつけるでござるよ。は………危険でござるゆえ」
そう答えた剣心は、力ない笑みを浮かべていて。
これは単なる報復の序章にしか過ぎないかもしれないと、過去の経験が告げていた。こんなありきたりなものでは済まされない予感が、切実にする。
「…………」
左之助は、はじめて見る剣心の憔悴した姿に半ば呆然とし、その後背をただ見送った。
幕末最強の維新志士と称される人斬り抜刀斎その人に、危険と言わしめた女。
その存在に、軽く畏怖の念を抱かずにはいられなかった。