3 忘れることのない記憶
袂を紐でたくしあげ、身体を半分障子に潜ませながら、こそこそと様子をうかがう。
大きなリボンと鮮やかな着物は、うら若い乙女のそれなのに。
その行動は、どう贔屓目に見ても出歯亀であった。
「なにやってんでぇ、嬢ちゃん」
「行儀悪いまねはやめろよな、薫」
それをあきれた様子で左之助と弥彦が見やる。
男二人にそう言われ、薫が障子に縋ったまま振り向いた。
「だってぇえ」
その瞳にはこぼれんばかりの涙が湛えられていて。
それを見た弥彦と左之助が盛大に溜め息をついたのは言うまでもない。
左之助は後ろ頭をかき乱しながら、その原因である人物たちの方にちらりと目をやった。
神谷家の庭先で、二人並んで歩きながら話をしている様子の剣心と。
座敷からは離れているので会話は聞こえないが、その表情と雰囲気は問題なく見て取れた。
それが、この薫の不安を余計に助長させているのであろうことは傍目に見てもあきらかで。
「嬢ちゃんがそうやってても、なんにもなりゃしねぇだろうが。ちったぁ落ち着いたらどうでぇ」
無駄とわかりつつもそう口にしてみた。
すると案の定、障子から離れた薫は、今度はちゃぶ台の上に身を乗り出して涙ながらに訴える。
「だってだってだって、どおしてあの人いきなり剣心に抱きつくのぉ!? ふつう、知り合いってだけでそこまでするぅ?」
その気迫に後ずさりながら、左之助は顔を引きつらせた。
「そりゃ、おめぇ、久しぶりに会ったってんならそれくらい…………」
「左之助はするのぉお?」
薫に詰め寄られ、左之助はしばし考えたあと、おもむろに首を横に振った。
「しねぇな」
「でしょぉお?」
男相手ならなおさらに。
(やっぱは女か?)
またはじめの性別疑惑が浮上する。
この取り乱しようからして、薫はを女と直感的に認識したようだが。
新たに出てきた状況証拠に左之助が首をひねっていると、二人のやり取りを傍観していた弥彦が、ふと口を開いた。
「そういえばあの時、剣心の方からも抱きついてるみたいに見えたよな」
その何気ない発言は、疑惑と不安に揺れる薫の地雷を、これでもかというほど見事に踏みつけたのだった。
*
「なにやら向こうが騒がしいでござるな」
薫を中心とした騒ぎの声を耳にして、剣心がそちらへ目をやった。
見れば弥彦と薫がとっくみあいをしているようである。
いつもと変わらぬ騒がしさに、剣心は苦笑を浮かべた。
「薫さんと弥彦君?」
が座敷の方を見ながら尋ねてくる。
「ああ。薫殿は神谷活心流の師範代、弥彦はその門弟でござってな。仲の良い師弟で、いつもああなる」
そう言う剣心の顔は、とても穏やかな笑みが浮かべられていて。
神谷家の庭に吹く心地のいい風が、肩を並べる二人の間を吹き抜けていく。
視線を前に戻した剣心が、ぽつりと言葉をもらした。
「…………久しぶりでござるな」
「………ん」
その声が心地よくて、自然と顔がほころぶ。
ゆるゆると足を進めながら、踏みしめる足音に耳をすませた。
ひどく穏やかな時間が、流れているのを感じる。
「…………今まで、どこに?」
剣心がこちらを見ているのはわかったけれど、なぜか視線を合わせることができなかった。
もう少しだけこの静寂を、空気を感じていたくて。
「………京都」
それだけ答える。
お互いの刀が、歩く振動でかすかに音を立てていた。
耳慣れたその音の重なりが、ひどく懐かしい。
「京都?」
「そう」
剣心がふと足をとめて、は自然と振り返る。
懐かしい顔。
いま目の前にいるのは、明治の緋村剣心ではなくて。
だからといって、幕末の、離れる前の剣心でもない。
そのことが、嬉しいのか、寂しいのか。
「鳥羽伏見の戦いの後…………」
剣心の言葉で、一気にそのころの記憶がよみがえる。
維新の終幕。
討幕派の持ち出した銃火器類が火を噴くなか。
ただ刀だけを携えて、駆け抜けた。
これが最後だという予感の中で。
刀を振るう。
それが、共に戦った最後の戦だった。
微笑んだまま、言いよどむ剣心の言葉を奪うように口を開く。
「剣心は、そのまま流浪人になった?」
「…………いや」
昔を振り返っているのか、剣心の瞳が僅かに揺れる。
たぶん今、二人は同じ過去を振り返っているのだろう。
は、そのまま剣心の言葉を待つ。
「…………お前の行方がわからなくなったと聞いて、一度京の街に戻った」
「……………」
ただ、吹き抜ける風の音と剣心の声だけが、の鼓膜を震わせている。
そうしていると、まるで、十年前に戻ったようで。
「桂さんや曽根崎さんに連絡をつけてもらったが、それでも、だれも知らないと………」
視線を上げ、剣心がまっすぐにこちらを見る。
それを受け止めるでもなく、流すでもなく、はただ微笑んで。
「…………どこに、いた?」
責めているわけではないのだろう。
あの戦乱のさなか、何も言わずに姿を消したことを。
剣心は、責めているわけではない。
「なにも、聞いてないか?」
少しだけ明るく言ってみる。
それでも剣心の視線は変わらない。
「聞いた…………山県さんから知らせが来て」
いまだ騒然とする京の町で、必死にひとりの行方を捜す剣心に、使いの人間が口頭で伝えた。
『家族に会いに行くと言って、京を出た』
それが、唯一の情報だった。
どれほどたどっても、その姿を見つけることは出来なくて。
剣心はそのまま、幕末の血を吸った刀を逆刃にかえて、流浪の旅に出た。
「…………家族には、会いに行ったよ」
は視線を落として言う。
その顔には、笑みを浮かべたまま。
「もともとは家族全員京の人間で、幕末の動乱を避けて、小さな村に移り住んでたんだけど」
「ああ。昔、話してくれたな」
その言葉に、ふっと笑みをもらす。
「…………その村が維新のおり、京から落ち延びた不逞浪士たちに荒らされたらしくて」
「……………」
剣心が僅かに顔を曇らせるが、はなんでもないように続ける。
「刃向かった父と兄は切り捨てられ、母はその場で後を追って自害…………私が帰った時にはもう、家はなくて、墓が立ててあった」
村人が立ててくれたのだと言う。
剣心の右手がきつく握り締められているのを見て、は剣心の右頬に触れた。
そうすれば必ず、握り返してくれることを知っているから。
「…………」
「その後は、京都に戻って仕事を探して。それまでの伝手を頼って剣心の居場所を捜してたんだけどね。結局、痺れを切らして旅に出た」
それが一年ほど前だと言うは始終、笑みを絶やさない。
やさしく、やさしく、十年前と同じように微笑みかける。
血と断末魔に満たされた記憶なのに、懐かしいと感じられるのはこの笑みのおかげなのだと。
微笑むことが出来なかった自分の代わりに、いつも微笑んでいてくれたのだと、いまさらながらに気づく。
「………俺が、一度でも京都に足を向けていれば」
「剣心…………」
剣心が、掴んだの手に口を寄せる。まるで、離すまいとするかのように。
呟かれる言葉が、少しくすぐったかった。
「…………どうしても」
「うん」
剣心は僅かに目を伏せる。
思い出すのは、血と悲鳴ばかり。
この手で殺めた、者たちの。
「出来なかった…………」
「………うん」
幾度となく血の雨を降らせた。
己の後ろに広がるのは、血の海。
その身も赤く、染め上げて。
「………がいない京に」
それは確かに己が選んだ道。
維新を成すためと、望んだ道だった。
けれど、数え切れないほど多くの命を奪った罪は、重く。
「足を踏み入れるだけの、決心がつかなかった…………」
「………うん」
京は、過去の自分が彷徨う場所。
己の罪を、否応なく思い知らされる。
ともすれば、呑まれてしまいそうで。
剣心は伏せていた視線をそっと上げた。
飛び込んできたのは、ひどくやさしい微笑み。
かつて、血の海に沈みそうになる自分を、そのたびに引き上げてくれた笑み。
目が離せなくなって見つめていると、がわざと明るい声で言った。
「…………もしかして、捜してくれてた? 私のこと」
それに、ふっと微笑みを浮かべる。
「―――ああ。この十年、ずっと」
は握られた手を引き寄せて、剣心の肩に顔を埋めた。
背中に回された手が、暖かい。
「…………ごめん」
「ああ」
静かに、剣心だけに聞こえる声で言う。
「忘れられてたとしても仕方がないって、思ってたのに」
離れたのは自分。
手を離したのは自分。
だけどそれは、決して本心ではなかったのだと、気づいていて欲しかった。
勝手なことだとわかっていたけれど、そう期待せずにはいられなくて。
「…………約束」
「ん?」
剣心の呟きに、顔をあげる。
僅かに微笑んだ、真剣な瞳がこちらを見下ろしていた。
「おぼえてるか? いつだったか、維新が終わったら………」
その言葉に、驚いて目を見開く。
それは激しさを増す動乱の中、僅かに手に入れた、穏やかな時間。
ふたり、静かなまどろみの中で交わした言葉。
『俺は、この維新が終わったら、二度と人を斬らない』
『剣心…………』
その言葉と、いま自分たちが置かれている立場があまりにもかけ離れていて、現実味がなかったけれど。
『人を殺めるのではなく、守る道を、探す………』
『………うん、そうか』
言葉にすることで確かなものになるような気がして、頷いた。
『私は…………』
少し遠くを見て。
ここではない、違う場所に視線を迷わせて。
『私は、家族に会いに行こうか、な。もうずいぶんと、顔をみてない』
『ああ』
些細だけれど、叶えられないかもしれない、それはうわ言のような夢。
もしかしたら明日には、自分はここにいないかもしれないのだから。
それはお互いに、重々承知していて。
『…………剣心』
『ん?』
つないだ手に、ぎゅっと力を入れる。
だけど、いまだけは。このまどろみの中だけはと。
『………一緒に、行ってほしい』
少し怖かった。
血濡れとなった自分を、家族は受け入れてくれるだろうか?
『ああ…………』
答えながら、剣心が強く握り返してくれる。
そのことに安堵して、身体の力を抜いた。
『それなら、そのまま一緒に来るか?』
ひどくやさしい声で、囁かれて。
微笑みながら、ゆっくり頷く。
『…………そうだね』
それは、血なまぐさい、殺伐とした日常の中に、簡単に埋没してしまいそうなほどささやかな約束。
一瞬だけ現実から逃れるように、囁きあった偶像。
守られることなど、期待していなかったのに。
それでも自分は、覚えていて。
「…………忘れるわけない」
「そうか? てっきり忘れられたと思っていた」
顔を埋めて言った言葉にそう返されて、くすりと笑う。
「それなのに、捜してくれてた?」
「ああ」
抱きかかえる腕に、ぐっと力がこめられた。
「………ごめん」
再会して初めて、声が揺らぐ。
こんなにも幸せなのは、望んでなかったのに。
自分には分不相応なものだと、自覚しているのに。
伏せた瞼の裏にひらめく、彼らの姿。
許されるはずのない、罪の証。
けれどそれに、必死で謝罪を繰り返して。
いまは、いまだけはと。
忘れたわけでは、ないから。
わかって、いるから。
だから、いま、このときだけは。
―――許してください。
どうか。
私を。
許してください―――いまだけで、いいから。
「会えてよかった…………」
囁かれた剣心の言葉が、鼓膜を震わせて。
満たされる。
心の中は、喜びと、愛しさと―――罪悪感。
―――ごめんなさい。
の口唇からこぼれた言葉は、その腕にしっかりと抱きしめている剣心にさえ届かないほどかすかなもので。
吹き抜けた穏やかな風に、さらわれていった。
座敷の方ではまだ喧騒が続いていて。
神谷家の庭先には、いまの二人を遮るものは何もない。