2 あまりにも突然な






〈神谷活心流 剣術道場〉


 黒々とした墨で書かれた文字は達筆で。
 門のところに掲げられた看板に、そう記されていた。

 左之助はなんのためらいもなくその門をくぐる。
 もその後に続いた。



「あら、左之助じゃない」

「よお、邪魔するぜ」



 家の扉を開ける前に、裏手のほうからほうきを持って現れた女性に、左之助が親しげに手を上げた。
 ここの娘さんだろうか。
 着物姿の、大きなリボンで髪を結い上げたかわいらしい女性だった。
 その彼女に、左之助がメシを食わせてくれと臆面もなく言う。



「またなの!? あんた昨日もきたじゃない!」



 その言葉に、は昨日もたかったのかと左之助を見た。
 しかし、その顔には少しも悪びれた様子はなくて。
 おそらくたかるのも、こうして怒鳴られるのも常習なのだろう。



「んな、かてぇこと言うなって。今日は手土産つきなんだからよ」



 その左之助の言葉には苦笑する。



「手土産? あら、そちらの方は?」



 腰に手を当てて憤慨していた女性は、左之助の後ろにいたにようやく気づいて、首をかしげた。
 が軽く会釈をする。



「おう、こいつがいま言った手土産だ」



 左之助に前に押し出され、はしかたなく目の前の女性に微笑んで自己紹介をした。



「はじめまして。です」

「はじめまして、神谷薫よ。で、左之助、この人が手土産っていったいどういうことよ」



 案の定、薫は訝しげに左之助を睨み返す。
 それはそうだろう。
 見ず知らずの人間をひとり連れてきて手土産とは。
 手土産本人にも相手にも、失礼なこと極まりない。

 しかし、左之助がなんだかんだと言い含めていると、薫は溜め息をつきながらも仕方ないわね、と言って左之助を受け入れた。
 左之助が、悪ぃな、と口先ばかりとわかる謝罪を口にする。



「さ、さんもあがって。お茶をいれるわ」



 左之助と薫のやり取りを傍観していたに、薫はにっこりと微笑みかけた。



「あ、いえ、でも私は…………」



 いくら無理やり連れてこられたとはいえ、さすがにそこまでは気が引けて断ろうとすると、既に家の戸口へと向かっていた左之助が振り返って言った。



「遠慮すんなよ。せっかくの好意は受け取るもんだぜ」



 はじめから遠慮も何もない左之助が何を言うのかと思うと、どうやら薫もそう思ったらしく、あんたはちょっとぐらい遠慮したらどうなのよ、と叫ぶ。
 その様子がおかしくて笑っているに、薫がくるりと振り返った。



「でも左之助の言うとおりよ。遠慮しないで」



 そう言った笑顔がとても明るくて。
 は、それではお言葉に甘えて、と神谷家の敷居をまたぐことにした。









            *









「まぁ、それじゃあさんは、全国を旅してるの?」



 薫の言葉に、は差し出された湯飲みを受け取りながら頷く。



「まだ日は浅いのですが、いずれはそうなるかと」



 湯気を立ち昇らせる茶を一口すすってから、目の前の机に静かに置いた。
 薫に食事もどうかと勧められたが、それは丁重にお断りしてある。
 さすがに自分はそこまで神経が太くないので。



「んじゃあ、やっぱり流浪人なんじゃねぇか」



 向かいに座った図太い神経の左之助は、目の前に並べられた食事をせわしなくつつきながら言う。
 はそれに苦笑して、心持ち声を落として答えた。



「流浪というわけじゃないから…………」



 人を捜しているのだと、心の中だけで呟く。
 ふと、無意識に視線を宙に漂わせた。


 もうずいぶんと長い間会っていない人間を思い出して、の脳裏に懐かしさがよぎる。


 それまではひどく近くにいて。

 呼吸も、リズムも、はっきりと感じられていた。

 離れたのは、自分。

 手を離したのは、自分。

 それでも、それは本心ではなかったのだと、気づいてくれていると期待して。

 昔交わした、約束とも言えない不確かな言葉を、信じている。




 微笑みを浮かべたまま僅かに目を伏せたを見て、一瞬固まった薫と左之助は、ゴキブリのごとき素早さで、さささと部屋の隅に肩を寄せ合った。
 そして額をつき合わせてこそこそと囁きあう。



(ちょっと左之助、あのひと男? それとも女?)

(それがわっかんねぇんだよ。聞いてもはぐらかすしよぉ)



 左之助はあの後も結局聞き出せなかったらしい。
 声を落として性別論議に花を咲かす。



(でも名前は男よね。って)

(おう。格好も男だな)

(帯刀してるし)

(男って言われても、べつに疑問はもたねぇよな)

(驚くけどね)



 大の男とうら若い女が、部屋の片隅にこそこそと身を寄せて囁きあう姿は一種異様な光景だが、二人がそれに気づくことはない。

 いっぽう当のはといえば。

 とっくの昔に思い出の淵から復活して、ひとりのんきに茶をすすっていた。
 二人の行動に疑問は持ったけれど、邪魔をするのもはばかられたので。

 今日は天気がいいなぁ、などと思い暇をつぶす。



(けどよ、さっきのあの仕草は女っぽいよな)

(うんうん。ちょっとドキッとするくらい色っぽかったわよね)

(やっぱり女か?)

(そう言われても、不思議じゃないわよね)

(驚くけどな)



 の僅かに伏せた目が、どうやら二人の心をとらえたらしい。
 ひそひそと漏れ聞こえる話を耳にしたは二人の盛り上がり具合を見て、左之助の言った手土産としての役割も果たせたかと、やれやれとばかりにひとりくつろいでいる。

 と、どたどたと廊下を歩く音がして、は湯飲みを持ったまま首だけ振り向いた。



「あれ、だれだ、あんた」



 現れたのは十歳ぐらいの少年で。
 勝ち気な瞳がを見下ろしていた。



「はじめまして、です。左之助の…………知り合いで」



 一瞬どう言うべきか逡巡して、当り障りのない言葉を選んだ。
 初対面で友達というのも変な話だ。
 ましてや向こうは、こちらの性別で悩んでいるような状況で。
 知り合いというのも、本当は言いすぎかもしれない。



「左之助の?」



 少年は少し意外だと言うように呟いてから、にっと笑みを浮かべた。
 そして親指で自分を指し示して言う。



「おれは東京府士族明神弥彦だ。よろしくな」



 少し尊大に、それでも元気良く名乗る少年に、はほほえましく答えを返す。



「よろしく、弥彦君」



 それに気を良くしたのか、弥彦は笑みを深くして、おう、と答える。
 そしてふと、部屋の隅でまだこそこそ話をしている薫と左之助に気づき、そちらへ近付いていった。
 はそれを傍観する。



「なにやってんだよ、ふたりとも」



 弥彦が仁王立ちで声をかけると、薫と左之助は文字どおり飛び上がって驚いた。



「きゃっ、や、弥彦!」

「うおっ、おめぇ、いつのまに帰ってきたんでぇ」



 それぞれ振り返って、弥彦を見上げる。
 二人は膝を抱えてうずくまっていたので、いまは弥彦の方が背が高かった。



「今だよ。それより客ほったらかして、なにやってんだ」



 弥彦の言葉に、の視線がこちらに向いていることに気づいて、薫が慌てて立ち上がる。



「あ、あらやだ、ごめんなさいね、さん!」

「いえ、おきづかいなく」



 照れ隠しなのか、ほほほと笑う薫に、弥彦があきれた視線を送って、しっかりしろよな薫、と零す。
 その様子がおかしくて、は声を立てずに笑った。



「あれ、そう言えば弥彦、帰ってきたのはあんただけ?」



 なにかに気づいたのか、薫が隣に立つ弥彦を見下ろした。



「おめぇ、剣心と買い物に行ったんじゃなかったのか」



 その何気ない左之助の言葉に、いままでのほほんと笑っていたが、ぴくりと反応する。
 しかし、だれもそれに気づかない。
 弥彦が背中に背負っていた竹刀を外しながら答えた。



「ああ、剣心なら、買ってきた味噌と醤油を先に台所に置いてくるとか言って、そっちにいったぜ」



 左之助は中断していた食事をはじめ、薫は新しい湯飲みを出すためか戸棚を探っている。
 は、どこか呆然とした表情で呟いた。



「……………けんしん?」



 久しぶりに口にしたその名前に、心臓が強く脈打つ。
 そんなはずはないと、そんな偶然があるものかと言い聞かせながら、沸き立つような感覚を押さえることが出来ない。

 もしかしたら―――。



「ああ、さん。剣心っていうのはうちの食客でね。しばらく前からここに住んで――――さん?」



 もう一度口にされたその名前に、身体が意に反して動き出す。
 落ち着けという冷静な自分自身の言葉など、なんの意味もない。

 手元も見ずに湯飲みを机に置いた。
 こぼれてしまうかもしれなかったが、そんなことはもう頭になくて。




 ―――確かめなければ。




 それだけが身体を突き動かす。
 同じ名前なだけかもしれない。
 その人物がそうだなんて確証はどこにもなくて。
 人違いかもしれないのに、勘違いかもしれないのに。

 だけど、それでも。

 その人は剣客で。刀を捨ててはいなくて。

 心臓が痛いほどに脈打つ。




 ―――確かめなければ。




 薫の言葉も耳に入らない。
 左之助や弥彦が驚いているのも気にならなかった。


 ただ、確かめなければ、と。


 脇に置いた刀にも手を伸ばさず、完全に立ち上がるのさえもどかしくて、そのままの勢いで部屋を飛び出した。
 どちらへ行くべきかわからず、咄嗟に右を見る―――。




「おろ?」




 聞こえてきたのは、背後からで。
 ただ、はじかれるように、振り向いた。




 ぶつかる視線。




 緋色の髪と、腰に提げた刀と。




 左頬の、十字傷―――。





「………………剣、心?」



 搾り出した言葉はひどくかすれていた。
 相手が聞き取れたかどうかもわからない。
 けれど、こちらを見てきょとんとしていたその顔が、次第に驚愕へとその色を変えて。


 
「―――? 、なのか?」




 その声が。

 その言葉が。

 十年前と寸分たがわずに重なる。



 捜していた。



 求めていた、声が、手が。




「―――――っ」



 どちらからともなく差し伸べた腕の中に、お互いの身体をしっかりと抱きとめた。



 涙は出なかった。

 震えることもなかった。

 ただしっかりと、両腕に力をこめて。



 懐かしい鼓動が、息づかいが、そこにあることを確かめた。





2005/02/10 up