15 決断
研ぎ澄まされた静寂は、聴覚を徐々に侵食してゆく。
いつもは聞こえるはずの虫の音も、梢の音も。
なぜか耳には届かなくて。
これほどまでに静かな夜は、久しぶりだと思う。
寝静まった世界。
唯一、二つ隣の部屋からは、自分とよく似た種類の気配が感じられて。
研ぎ澄まされた、鋭利な気配。
今の時代には少なくなった、刀を携える者のそれ。
おそらく向こうも気づいているのだろう。
一つの部屋を隔てながらも、は互いの意識が絡むのを知覚する。
眠ることもせずに。
ただ、抱えた刀に身を預けて。
虚空を見据えた瞳に、あるはずのない情景が浮かぶ。
それは、まぎれもない過去の記憶。
戦いの中ではなく、病によって命を手放そうとする人間の枕辺に座って。
床にある身体は、老いではない衰えに蝕まれていた。
こけた頬。
落ち窪んだ目。
維新三傑の一人と称された男の面影はもうそこにはなく、静かな呼吸音の中に死期が迫っている気配を察する。
『………すまんな、』
天井を見上げたまま。
呟かれた言葉は、ずいぶんと穏やかだった。
突然に訪れる死ではなく、ゆるゆると確実に迫りくるそれは、いったいどんなものなのだろう。
これまで数え切れないほどの死を目の当たりにしてきたはずなのに、自分には想像もできないそれ。
『私には、もうこの程度のことしかしてやれん』
そう呟くように言って。
そこに垣間見えるのは、僅かな後悔を抱いているかのような色。
あれほど力に満ち、揺らぐことなど知りもしなかった彼が、病ゆえに初めて見せた、それはほんの小さな心の惑いだった。
『もっと早くに、こうすべきだった………。そう、三年前のあの時………お前が、あの仕事を請け負う前に………』
言葉と共に思い出されるのは、あの赤い記憶。
拭うことも、切り取ることもできない、血溜まりの夢。
閉ざした瞼の裏に、フラッシュバックする光景を自覚しながら。
『桂さん』
今はもう、公に呼ばれることのなくなった名を口にする。
深く沈んでいこうとする彼の瞳を、こちらへと引き戻すかのように。
そうしてゆっくりとこちらに向けられた視線を受け止めて、薄く微笑んだ。
『感謝しています。これで私は、己の望みを叶えることができる………』
仕事に、政府に縛られたこの身では、到底かなわぬはずの願い。
解き放ってくれたのは、今も昔も恩人であるこの人。
自分を縛る彼らと同じ立場にあるというのに、今際のきわに立った彼はその立場よりも、今は亡き友の信頼を優先させた。
友から託された預かり子を、このまま残していくことなどできなかったのだ。
訪れた新時代の影に息づく、いまだ取り去れない暗い闇の中に。
彼が願ったのは、その子の幸せ。
だが現状は、あまりにもかけ離れていて。
『…………やはり望みは変わらないか』
問われ、は笑んだままこくりと頷く。
一見穏やかに見えるそれはしかし、その裏にある望みを知った者には、悲痛にしか映らないものだと解っていた。
時すでに遅すぎた決断は、目の前の彼を責め苛んでいるのだろうか。
拭えぬ傷を負った子を、見やる瞳はひどく悲しい。
『本来なら、力尽くでも止めるべきなのだろうな、こんなことは』
穏やかな、僅かな笑みさえ滲ませたその言葉。
彼が、彼らが自分に望んでいることは知っていた。
自分の幸せを、ひどく案じてくれていることを知っていた。
自分の抱く望みが、それをことごとく裏切っているのだということも。
けれど、望みが変質することはありえなくて。
それは断罪。
己が望むものは、安穏とした平和ではなく。
誰もが望むような、幸せなどではなく。
ただ、罪を断じる術。
『…………緋村には、全て話すか』
不意に問われ、一瞬答えに躊躇した。
己の中でも未だ決めかねていたことを問われて。
『………必要で、あれば……。ですが、できるなら何も知らせず、終わらせたい』
曖昧な願望。
きっと勘の鋭い彼のこと。一筋縄ではいかないだろうと苦笑を漏らして。
それでも揺らぐことのない思いに、目の前の人はこの傷の深さを知る。
怒りや恨みなどとは、到底言い表せないこの思いを。
『私は、死んだ先でもまた殺されるだろうな。奴の……晋作の大切な預かり子を、ここまで追い込んだのは私の責だ』
うっすらと笑いながらも、その目は少しも笑っていない。
どちらかといえば悲しげな。そんな表情。
笑んでいるはずなのに。
その瞳は、深く沈んでいて。
『私が晋作さんの所へ来たのは、預かり子という程の歳ではありませんでしたよ。それに、家出同然のあの状況を、預けられたとは言わないでしょう』
わざと、真面目たらしくそう言った。
そうすれば案の定、苦笑のような、それでもちゃんとした笑みが浮かんで。
お前も緋村も充分子供だったと。
そう言って笑ったのだ。
そうしてその数週間後、西南戦争の終結を待たずにその人は、病によってこの世を去った。
最後まで、友やこの国を案じながら。
は、ゆっくりと俯けていた頭を上げる。
月明かりさえなく、星のほのかな光だけが浮かび上がる室内に。
さまよわす視線が捕らえているのは、はるか西の古の都。
そして、告げられた言葉。
―――今一度、京都へ行ってくれ。
「………………」
部屋を一つ隔てた向こうに視線を当てる。
―――わすれてしまったの?
夢の残像が、脳裏に閃いて。
―――ワスレテシマッタノカ?
耳鳴りのようなそれに、吐息だけで答えを返した。
忘れたわけじゃないと。
成すべきことを、忘れたりはしないと。
けれど、それが消えることはなく。
―――俺は、この維新が終わったら、二度と人を斬らない。
遠い過去の面影が、それを覆うように重なった。
かつての、ささやかな。
うわ言のような、約束。
―――そのまま、一緒に来るか?
ささやかな。
守られるはずのない。
「……………っ」
不意に襲ってきた頭の鈍痛に、は眉を寄せてこめかみを押さえた。
脈打つようなそれは、深く沈殿して。
再び元のように頭を俯けて、刀を抱えなおす。
かちゃりと、軽い鍔鳴りの音がした。
虫の音も、梢の音も。
なぜか耳に届かない空間に。
冴えた鍔なりの音だけが妙に響いていた。
*
一週間後に返事を聞きにくると。
大久保卿がそう言って帰っていったあの夜から、もう三日。
刻々と迫りくる決断の日に、誰もがもんもんと落ち着かない日々を送っているというのに。
今日も今日とてあいも変わらず、庭には洗濯物がはためき、家のそこここで箒の穂先が動く音が軽快に響いていた。
「、すまぬが裏から薪を取ってきてくれぬか」
「ん」
などとのんきな会話まで聞こえて。
神谷家のおさんどん二人は、にこにこと毎日の家事に精を出す。
その姿はあまりにも自然すぎて。
見ているほうがイライラするほどだった。
この家の若き主、神谷薫などは、二人の姿を見るたびにそわそわするやらやきもきするやら、気が気ではない。
一体どうするつもりなのかと。
こうしている間にも、日にちはどんどん過ぎ去っていくのだ。
もちろん、剣心たちを行かせるつもりなど毛頭ない。
たとえ戦ってでも、二人を利用させたりしないけれど。
だけどそれでも、最終的に決断するのは剣心たちだ。
不殺を誓った剣心。
だから、まさか自ら進んで志々雄真実の暗殺を引き受けるとは思わない。
だって、そんなことに関わるなんてこと、しないはずだ。
そう思っているのは薫だけではなくて、弥彦も左之助も、恵までもが同じ心構えだと断言できる。
けれど、それでもやはり不安は拭い去れなくて。
だってもし、剣心が大久保卿の話を了承してしまったら?
そう考えると、いても立ってもいられなくなる。
その先にあるものはきっと、考えたくもない状況なのだから。
薫はここ数日というもの、そんな不安のような焦りのような、複雑な思いと必死に戦っていた。
それだというのに、問題の当事者である二人はと言えば。
先ほど言った通り、洗濯に精を出し、掃除に精を出し………。
時おり悩んでいるのかと思えば、それは夕食の献立のことで。
「ああ、薫さん。道場の方、とりあえず穴だけ塞いでおいたけど、あれでよかったかな」
「え? あ、ええ、ありがとう。とりあえずはそれで…………」
物思いにふけっていた薫に、通りすがったついでとばかりに声をかけてきたは、どういたしましてと笑って去っていった。
その後ろ姿を見やって、薫は溜め息をつく。
剣心といい、といい、他人に思考を読ませないようにするのが異常に上手いものだから、もしかして本当に忘れているんじゃないかとすら思ってしまう。
いや、まさかさすがに、そんなはずはないと思うのだが………。
剣心のとぼけた笑顔と、の飄々とした姿を見ていると、無性に不安になってくるのだ。
「そりゃあ、嬢ちゃんの言い分はもっともだ」
「でしょう!?」
これこれしかじかと。
薫がここ最近の二人の様子を事細かに説明し、おまけにいい加減限界点に達しようとしていたイライラを、いつものように昼飯をたかりにきていた左之助に吐露してみれば。
左之助はメザシを咥えながらこくりと頷いた。
それを横で見ていた弥彦が、後ろ頭に両手をやって壁にもたれる。
「案外、マジで忘れてるかもしれねぇぜ。剣心の奴、あれで意外と抜けてたりするからな」
そう弥彦が言えば、薫も左之助もぴたりと口を閉ざして。
否定すべきそれをついつい、あり得るかもしれない………と考えてしまった。
剣心にしろにしろ、そのいつも飄々とした風体のとぼけた振る舞いや笑顔は、見ているものの警戒心をいとも簡単に削いでしまう。
特に剣心などは、それが故意なのか本気なのか、判断がつきかねるほどで。
しかしいざという時になれば、その空気が一変するのを知っている。
研ぎ澄まされ、触れれば切れそうなほど、まるで別人のように変貌することを。
のそれを目の当たりにしたのはつい先ごろの、あの斎藤と剣心の斬り合いに割って入った時だったのだけれど、そのことに関しては何となく予想はしていた。
だから皆、そんな彼女の一面を知ったからと言って、今更どうこうするつもりもない。
ただ少し驚いただけ。それだけだ。
「とにかく、剣心たちが京都に行かなきゃいけない理由なんてないんだから、私は断固阻止するわよ!」
弥彦の言葉に一瞬、今までとは違う意味で不安を抱いた薫だったが、はたと我に返るとそう宣言した。
そうだ、そもそも自分は剣心とを京都へ行かせるつもりなんて、初めからなかったのだ。
話を聞けば大変そうだし随分深刻なのはわかるが、大久保卿の言い分は明らかに押し付けだと感じる。
志々雄とかいう人物がどんな人なのかは知らない。本当の幕末を知らない自分たちには、理解できないことも多くあるのだとは思うけれども。それでも政府が彼に対して行った所業は許されないものだとも思う。
政治のためと、この国のためだと言われては、一般人の自分たちにはどうこう言う事もできないが、それとこれとはまた話が別なのだ。
人斬りをやめ、不殺を誓った剣心に、再び人を斬れという政府の言い分はとてもじゃないが納得できない。
しかも、尻拭いもいいところの理由でなんて、どうして快く見送ることができるだろう。
そう薫が憤慨すれば、弥彦や左之助も一様に大きく頷いて。
「あったりまえだぜ! 剣心やを、政府のジジイどもにいい様に使われてたまるかよ」
「おうよ。これ以上二人に手出しするってんなら、こっちも黙っちゃいねぇ」
弥彦は好戦的に目を光らせ、左之助は右の拳を左の手の平に打ちつけた。
ぱしんと、小気味良い音が響く。
皆の心は一つだった。
「剣心はもう、人斬り抜刀斎なんかじゃないのよ。さんだって同じ。そんな二人が、京都へなんか行くはずない。………いいえ、私たちが京都へなんか行かせないわ」
その先にあるものが何なのかはわからないけれど。
それでもきっと、剣心が京都へ行くことになれば、この言い知れない不安は当たってしまうのだろう。
きっと剣心は、自分たちの前から消えてしまう。
あの、斎藤との決闘の時に見た、抜刀斎の顔。
自分の知っている彼は消え去り、剣心の目には自分たちのことなど映ってはいなかった。
人斬り抜刀斎の、顔。
きゅっと拳を握り締めて、薫は口を引き結んだ。
もどかしい思いと、確固たる決意を胸に秘める。
初めから、自分たちの思いは決まっている。
剣心たちを、京都へ行かせたりなんかしない。
「私たちがあの二人を守るのよ!」
薫がそう、高らかに宣言した時。
「―――それはちょっと、困ったな」
気色ばんだその場には不似合いな、なんとも間延びした声が突然割り込んだ。
薫の言葉に掛け声で同調しようとしていた弥彦や左之助も、拳を握り締めていた薫自身もそちらの方を振り返る。
襖に肩を寄りかからせたが、こちらを眺めていて。
「………さん?」
「困るって、何がだよ」
首を傾げている薫と、不思議そうな顔をしている弥彦と。
やはりきょとんとしている左之助の顔を順々に見やって、はふと微笑みらしきものを浮かべた。
組んでいた腕を解いて、腰の刀に預ける。
「どうやら私は、皆の気持ちには応えられないらしい」
まるで世間話でもしているかのように、あっさりとそう告げて。
その顔は、穏やかに笑んでいるように見えた。
腰に差した刀と、どこか不釣り合いな。
けれど少しも違和感を感じさせない。
そんな表情。
「さん、それって、どういう………」
「―――私は、京都へ行く」
その場にいた全員が息を呑み、目を見開いた。
言葉を紡いだを凝視して。
予想外の事に、一瞬誰も口を開けない。
ただただ、驚くばかりで。
対するは、穏やかに、なんでもないように佇んでいる。
告げた言葉とその自然さが、ひどくかけ離れすぎているように感じるのは錯覚なのだろうか。
それほどまでにあっさりと、告げられた決断。
しかもそれは、自分たちが思っていたものとは正反対の………。
「………決めたでござるか」
「剣心!」
とは反対側の方向から現れた剣心に、以外の面々が再び驚きの声をあげた。
一斉にそちらへと視線を向けるけれど、剣心はをじっと見つめていて。
そんな剣心に、はふと微笑みをむける。
「ああ。期限まではまだあるけどね」
応えた口調の軽さに比べ、二人の表情はあまりにも、深いものだった。
ヒロインの過去が少しずつ見えてきました。
晋作さんというのは、あの高杉晋作のことです。奇兵隊をつくった人。
桂小五郎は死ぬ頃には木戸孝允と名前を変えていますが、ヒロインさんは桂と呼んでますね。
呼びなれているんです。たぶん。
『仕事』とかいう不透明な記述が多いですが、そのうち暴露される予定。
もうしばらくお待ちください。
剣心華伝 ― 全史るろうに剣心 明治剣客浪漫譚 ―
★★★★★
五年にわたる連載の、ぶっちゃけ話や裏話が満載のこの一冊。
原作者である和月伸宏氏の事細かなインタビューを中心に、描かれなかったエピソードの話や、全二十八巻の詳
しいストーリー、表紙イラスト。とにかく様々な裏情報が収録されています。
和月氏のインタビューの中には、この頃にはまだ決まっていなかった次回作に関するコメントも含まれているとか。
好きな人は注目ですね。
今更という感じもしますが、連載が終わって随分経った今だからこそ、逆に新鮮に感じるのではないでしょうか。
「ああ、そういえばこんなこともあったなぁ」 なんて感傷に浸ってみたりするのもオツかも。(笑)
そして何より私の心を掴んで離さないのは、るろ剣本編では語られなかった、キャラクターたちの その後 が収録
されてるということ。
剣心と薫の子供については、最終巻で和月氏が語っていらっしゃいましたよね。
ところがこれには、他のキャラたちの後日談が、オールカラーで収録されています。
五年後のエピソードで、左之助や恵はもちろん、斎藤や操に至るまで描かれていて、これはもう必見!
コミックス二十八冊に加えて、これを持っていればもう完璧?
夢を書くときに役立ちそうですよね………。
剣心秘伝 ― 原典・るろうに剣心 明治剣客浪漫譚 ―
★★★★☆
こちらは京都編までの事細かなストーリーや情報が収録されている一冊。
範囲が限定されている分、こちらの方がデータがより詳しいものになっていますね。
たとえば、京都編に出てくるキャラたちのプロフィールとか、それまでの戦歴とか。
ていうか、これこそ私が今求めているものでは………?
とにかく情報が詳しいのが売り。
上の『剣心華伝』が、るろ剣という作品の流れに着目する歴史書ならば、こちらの『剣心秘伝』は特定の時代に的を
絞った専門書?
この二冊をそろえた暁には、マスターと名乗っていいですか?(笑)
カラーページも豊富で、京都編がお気に入りの人はぜひとも手に入れておきたい一品。
でもやっぱり時代が区切られていると言うことで、謙虚に星は四つ。
内容は五つ星なんですけどねぇ。
幕末恋華・新撰組 PS2
★★★★☆
トップページでも紹介している、『うるるんクエスト 恋遊記』と同じ3Dの作品。
本格派歴史系恋愛アドベンチャーですね。
史実に沿った事件が起こる中で、女性隊士として新撰組に所属することになった主人公。
時代の荒波に翻弄されながらも、刀を取り、懸命に戦い生き抜いていくのです。
まさしくゲーム版ドリームですな。
なにぶん新撰組ですから、どうやったって悲恋になるだろうってキャラはいますが、訪れたEDに感動することは請
け合いです。
絵柄も綺麗ですし、声優陣も豪華なメンバーが揃っているので満足できると思いますよ?(しかもフルボイス)
ただ、D3という会社の方針として、『安価で攻略も簡単なものを』という目標? 理念? の元に製作された物です
から、攻略は簡単です。
人によっては物足りなさを感じてしまうかも?
そういった点では初心者向きですかねぇ。
ですが、近藤勇や沖田宗司、土方歳三などと、時代に全てを捧げて一心に生き、けれどもその一方で、どうするこ
ともできずに湧き上がる暖かな思い。
これはかなり胸にきます。
現代に生きる私たちには予想できない、様々な人間模様が用意されているかも。
個人的にはおすすめですが、やはり攻略の難易度が低いことを踏まえて、星は四つ。