14 回る歯車
古い友との約束は、どれほどその人を縛るのだろうか。
例えばそれが、今際の際の、ものであったとしたならば。
しんとした夜の気配が、辺りを包んでいた。
持ち込んだ行灯の柔らかな光が、寒々しい道場に灯される。
つい先ほどまで繰り広げられていた死闘の傷跡は、瓦礫となってなお密やかにその存在を主張する。
その場に向かい合うのは、現政府の最高権力者と、幕末に名を馳せた剣客。
お互いに張り詰めた空気は、状況の深刻さを物語るもので。
なにも知らぬ者たちもまた、一様に気を張り詰めていた。
語られる事実。
明かされる真相。
それらはあまりに、凄惨で。
「緋村、。もはや頼みの綱はお前たちしかいない。この国の人々のため、今一度京都へ行ってくれ」
「……………」
「……………」
剣心は大久保を見据え、はただ虚空を見つめていた。
誰も、口を開かない。
まるで時間でも止まってしまったかのように。
息が詰まるような重苦しい空気が、その場を支配して。
けれどその沈黙は、長くは続かなかった。
この話が始まってから今まで一言たりとも口をきかず、ただ聞いているばかりだったが、はじめて口を開いたのだ。
「―――大久保さん」
少しかすれた、静かな声。
僅かに俯いた状態からつむがれるそれは微かな呟きのようだったけれど、大久保は視線をに当てる。
初めは絡まなかったそれが、ゆっくりと合わされて。
「理由を………聞かせてもらえますか」
つむがれた言葉はやはり、少しかすれていた。
一度交わした視線は、もはや揺らぐことはない。
大久保はまっすぐに向けられるの視線を、ただ無言で受け止める。
「貴様、ふざけるとただではおかんぞ! 先ほどから言っているだろう、これは明治政府存亡の危機、ひいてはこの国の危機なのだと! それを…………っ」
「よしたまえ、川路君」
の言葉に憤慨し、問われた大久保よりも先に声を荒げた警視総監を、大久保は静かに制した。
しかし………! と納得できない様子の部下の声にも取り合わない。
の視線を受け止めたまま。
「理由………か」
独り言のようなその呟きに、大久保の表情がふと陰る。
僅かに、思案するような間をあけて。
「この国のため、維新を成すため…………と言えば、納得するかね」
再び口を開いた大久保の瞳は、一瞬前の陰りなど微塵も残してはいなかった。
完全なる為政者の風格でを見据える。
その威圧感は、普通ならば萎縮してしまってもおかしくはないだろう。
それほどに、彼は力を持っていて。
けれどはそれを一身に受けてなお、僅かの動揺も戸惑いも見せることはない。
むしろ、次につむがれた声は更にも増して冷たく。
「政治の前には、今際の友と交わした約束ですら意味はない………と」
二人の会話を聞いていた他の面々は、みな一様に怪訝な顔つきをしていた。
それまで話の内容に最も精通していた剣心ですら、これには首を傾げるばかりで。
唯一理解している二人は、ただお互いを見据えて動かない。
その空気はまるで、互いに剣を構えて対峙しているかのようだった。
他人には入り込めない、張り詰めた糸のごとき緊張がそこにある。
それを断ち切ったのは、大久保の方で。
「……………木戸との………桂との約束を、ないがしろにするつもりはない」
微かな溜め息と共に、それまで纏っていた鋭利な空気を若干和らげると、瞼を伏せてそう言った。
その声に見えるのは、僅かな哀愁と、苦悩の残像。
病に蝕まれ、起き上がることさえ困難なはずの友が、自分に向かって頭を下げるその姿を、今でも鮮明に思い出すことができる。
―――このままでは、死んでも死にきれんのだ。
そう言って、頭を下げた友の願いを。
交わした約束を。
自分は今まさに、違えようとしている。
いや、今この場にこうしている時点ですでに、違えたも同然だ。
自分が緋村の目の前にいること自体が、あってはならぬこと。
「―――だが、それを押してなお、お前に……お前たちに頼まねばならん。事態はそれほどに、急を要しているのだ」
「……………」
迷いや躊躇の一切を、その胸の奥に飲み込んで。
鮮明に思い出せる友との約束に、背を向ける。
―――頼む、あいつを………もう自由にしてやってくれないか。
死の間際にあってなお、友が最後まで憂えていた預かり子を前にして。
「裏切りなのは承知の上。お前にも桂にも、償えるとは思っておらん」
薄情とさえ取れる言葉を口にする。
再び開かれた大久保の瞳は、やはり鋭利なもので。
全てを甘んじて受けるのだと。
裏切りの汚名さえ。
己を責める、非難の言葉さえ。
受け止めてなお、己の意志を変えることはない。
その瞳は、確かにそう告げていた。
だからは、ただまっすぐに大久保を見詰める。
まるで、ほんの小さな動きさえ見逃すまいとするかのように。
なんの感情も見せないその瞳は、一切の思考を読ませることはない。
「全ての事が成った暁には、桂の墓前で腹も切ろう………。だが今は、何をおいても志々雄真実討伐が絶対の急務。、緋村、この国を守るには、お前たちの力が必要だ」
再び繰り返された言葉。
今一度、京都へ行ってくれと。
あの、血風吹きすさぶ記憶に彩られた、かつての戦場へ。
それが意味することなど、問うべくもない。
鋭い視線で大久保を見据えていたは、彼の言葉を聞き届けると静かに目を伏せてしまい、その答えは是とも非とも判断できなかった。
隣に座る剣心もまた、険しい表情のまま沈黙して。
しかしその重苦しい空気を遮るように、新たな声が思わぬところからあがる。
全員の視線が、そちらへと集まって。
「それってつまり剣心たちに、志々雄真実を暗殺しろってことですか」
言葉を発した、薫本人を驚きの顔で見やる。
凛とした面持ちでまっすぐに大久保を見据える薫。
その姿には、大切な人の死闘を目の前に泣き崩れるしかできなかったか弱い少女の面影など、どこにも見受けられない。
むしろこの場にいる誰よりも、確たる意志をもっているかのようにすら見える。
そしてそれはおそらく、勘違いではないだろう。
は薫の顔を確かめるなり、そう確信した。
いや、顔を見るまでもない。
その声を聞けば、彼女の言わんとしていることなど容易に想像がつく。
そして案の定、薫ははっきりと言葉を口にして。
「大久保卿。今、あなた方が人斬りを必要としていることはわかりました。けど今はもう、剣心は抜刀斎じゃないんです。さんだって、いまさらそんなことに関わらなきゃいけない理由なんてないはずだわ。―――私たちは絶対に、二人を京都へ行かせません」
それはどうやら、他の面々の意見も代弁したようで。
ぎゃんぎゃんと、左之助に至っては警視総監の胸倉を掴み上げてまで抗議と非難に息巻いていた彼らは、一様に険しい目つきで大久保たちを見据えた。
剣心とが、その様子にただ目を丸める。
もちろん川路警視総監のその広大な額には、怒りの山脈が築かれたのだけれど。
「バカが! 貴様等は事態の重大さが………」
「よしたまえ、川路君」
しかし再び大久保卿に制されて、その怒りはまたもや行き場を失った。
部下の不満げな言葉もよそに、卿はおもむろに立ち上がる。
「これだけ重大な事にすぐ答えを出せといっても無理な話だ」
横に置いてあった外套に袖を通し、こちらを見上げている剣心とを見下ろす。
「―――一週間考えてくれ。一週間後の五月十四日、返事を聞きに、もう一度来よう」
そう言い置いて、大久保卿は剣心たちに背をむけた。
*
「―――壬生の狼を飼うことは、何人にもできん」
冷徹に言い放ち、赤松の首を一瞬で斬り飛ばした刀を再び一閃させる。
明治を食い物にする薄汚いダニをもう一匹、駆除するために。
血飛沫は室内を盛大に汚し、床には無様に転がる二体の惨殺体。
地獄絵図のごときその中で一人、一滴の返り血も浴びることなく佇んでいた斎藤は、足元のそれらを一瞥しただけで、何事もなかったかのようにその場を後にした。
剣心との死闘で全体的に汚れてしまった制服を、気休め程度に整える。
街中へでて、不審に思われない程度に。
斎藤は人ごみの中を歩きながら、不意に浮かんできた微笑を、制服の帽子を目深にかぶることで外界から遮断した。
自分と抜刀斎の剣を、たった一人で受け止めたあの瞳を思い出す。
冷たさばかりが目立つ殺気。
冷静なのではない。
戦いの中に置かれた剣客ならば、多かれ少なかれ誰もが持ちえるはずの高ぶりを、昔からあれは一切感じさせない。
そう、あの時も同じだった。
京の町が、いまだ激動の渦中にあった頃。
夜毎血の雨が降る町にその日もまた、命を競り合う怒号が響き、新たな鮮血が宙を染めていた。
冴えた月の光を受けて、対峙した互いの刃が閃く。
『ここで終わりだ、抜刀斎』
『寝言は寝て言え。終わるのは貴様だ』
遠く向こうの路地で、互いの仲間が戦っているのが聞こえる。
刃を競り合う金属音と、何かを裂く音と、断末魔と。
そんなものが響き入り乱れる中で、ここだけが。
ここだけが、不可思議なほどの静寂に満ちている。
耳に入れるのは互いの息づかいのみ。
張り詰めた空気、極限にまで上り詰めた緊張。
生か、死か。
いま問うべきは、技の優劣ではなく。
ただ、どちらが死ぬのか、生き残るのか。
一方は誠の文字のもと、忠義のために世の平安を守ろうとし。
一方は維新の言葉のもと、新たな時代の平等を望み。
互いの刃を突き合わせたその先に、望むものは同じはずなのに。
一度血に濡れてしまった歯車は、滑りを良くして加速するのみ。
その淀みない動きを止めるなど、一体誰にできるというのか。
動いたのは全くの同時。
ふたつの刃が、互いの持つ全ての力を乗せて空を裂く。
その一瞬は無音。
対峙した相手を切り裂くために、振るわれる刀。
その先に閃くものは、とうに見慣れてしまった。
闇の中でもなお鮮やかな、赤。
けれどその時だけは、なぜかいつもと状況が違っていて。
『―――っ!』
『―――っ!』
刃を持った二人の目が、驚愕に見開かれる。
飛び散ったのは、生死を賭けて争っていた彼らのものではない。
二人の間に突如として割って入ったその者は、苦痛に眉をひそめながらも、彼らに負けず劣らぬ殺気でもって口を開いた。
『―――新撰組三番隊組長、斎藤一。ここは引け』
肩口に相手の刃を深く飲み込みながらも、寸分の揺らぎもなく己の刀を相手の喉もとに突きつける。
反対側の左手は、腰にさしていた脇差を鞘のまま引き上げて、もう一人の刃を受け止めていた。
『………ふざけたことを。俺がこのまま刀を振れば、お前を斬り捨てるなど造作もないこと』
『ならばその瞬間に、この刃がお前の喉を掻き切る』
ひどく静かな、それは宣告。
確実な、死の訪れの。
『―――斎藤さん!』
唐突な仲間の声に相手の意識が一瞬だけ逸れたその瞬間を、動きを止めたまま状況を見定めていた剣心は見逃しはしなかった。
脇差で受けていた斬撃の負荷が不意に消え、半ば強引に後ろから身体を引かれて、の肩口から刃が抜ける。
鮮血が吹き出すのも構わずに、剣心はその身体を抱えるようにして全速力で駆け出した。
『―――っ!』
咄嗟に追おうとするが、思いとどまる。
刀の切っ先は、己と抜刀斎の斬撃をたった独りで止めた者の血で紅く染まっていて。
去り際に向けられた抜刀斎の射殺すような眼光に、知らず口角がつりあがるのを自覚した。
その過去の記憶と寸分違わず合い重なるの目。
引け、と自分に告げた奴のその瞳が、より鮮明に十年前の記憶を呼び戻させる。
伝説とまで言われた人斬の傍にもう一人修羅がいるのだと、言われ始めたのはいつの頃からだったか。
氷のような修羅がいると。
自分と抜刀斎の剣をたった一人で受け止め得たその剣椀が、時を経た今もなお衰えていなかったことに、斎藤の笑みはより深くなる。
「狼は狼、新撰組は新撰組、人斬りは人斬り………なぁ、抜刀斎」
不殺などと、愚にもつかないことをほざく抜刀斎に感化され、もしや奴までも腑抜けてしまっているのではと思っていたが。
その予想がまったくもって裏切られたことは、先の姿を見れば疑うべくもない。
帽子の影で笑む斎藤の手元で、刀の冴えた鍔鳴りが響いたのだけれど。
通りすがる人々は誰一人として、気づくことはなかった。