13 邂逅
誰か二人を止めてくれと。
薫の悲痛な叫びはしかし、無常にも虚しく響くだけに終わった。
「無理だぜ嬢ちゃん。俺たちには止められねぇ………。剣心達は完全に明治の東京でなく、幕末の京都の中で戦っている。いくら呼んでも、もう俺達の声はとどかねぇ」
恵に支えられながら姿をあらわした左之助の言葉は、まさしく真実を捉えていて。
薫は崩れ落ちたまま、呆然と剣心の後ろ姿を見ることしかできなかった。
この戦いに送り出す前に感じたあの不安が、現実となって目の前にある。
ここにいる剣心は、自分の知る剣心ではない。
自分たちを知っている、剣心ではない………。
「―――みんな、怪我はないな?」
「!?」
息苦しいほど張り詰めた緊張感の中で、不意にかけられた言葉に左之助たちは一斉に振り返った。
「どこに行ってやがったんだよ、おまえ!」
落ち着き払った様子で現れたに弥彦はくってかかる。しかしはそれには応えず、道場の床に座り込んだままでいる薫の元へ近づいた。
「薫さん?」
静かな声で顔を覗き込めば、いっぱいに涙を溜めた瞳がこちらを見返してきて。
「…………、さん。剣心……剣心が………」
おそらく混乱しているのだろう。
喉を詰まらせながら、剣心がと繰り返す。
は無言でそれを見つめ、不意に顔をあげて立ち上がると、今まさに死闘を繰り広げている二人のほうへ向き直った。
髪を切り、警官の制服を身に纏ってはいるが、そこにいるのは確かにかつての仇敵。
文句なしに強いと評した、新撰組三番隊組長、斎藤一その人。
そして、それに対峙しているのは。
「………ちょっと、遅かったかな」
今朝までとは明らかに違う、触れれば切れそうなほどの殺気を纏った剣心を見て、はそう独り言つ。
あれは、東京で会ってからつい今朝方まで、この神谷道場で見てきた剣心ではない。
人斬りと呼ばれた頃の彼。
雑巾も、洗濯桶も、台所も、何一つとして結びつかないその眼光は、むしろそちらの方が馴染み深いと感じる。
それほどまでに、今の剣心は過去へと立ち戻っていた。
「―――!」
斎藤は牙突の構えを崩さず、再び剣心へと突進する。
折れた刀での暴挙に皆は目を丸めるけれど、剣心もも眉一つ動かすことはない。
引くことを知らない彼らの姿勢は、幕末の頃にいやと言うほど知らされている。
やはり変わってはいないと、そう思うだけだ。
気合いとともに斎藤の手を離れた刀は、すさまじい勢いでまっすぐに剣心へと向かう。
しかし剣心は、それを素手で弾き落とした。
これで勝負は逆刃と徒手空拳。
勝負あったと誰もが思ったその時。
「もらった!!」
斎藤のベルトが空を切り、剣心の刀がその手から離れた。
斎藤の拳が剣心を捉える。
その機を逃すことはなく、斎藤は素早く脱いだ制服の上着を剣心の首にまわし、背後から力の限り左右に引いた。
「……………!」
苦痛に歪む剣心の表情。
左之助の言うように、斎藤は首の骨を折るつもりなのだろう。
けれどは、それを目の当たりにしたところで、まったく動じた様子をみせることはなかった。
皆の焦燥をよそにただじっと、その戦況を眺めているだけだ。
剣心を窮地から救うだけならば造作もない。
剣心を捉えていることで斎藤の両手はふさがれたまま。
そこに斬りかかれば、嫌でも剣心を開放せざるを得ないだろう。
もし万が一、斎藤が手を離さないというようなことがあったとしても、それはそれでこちらが斎藤を斬り伏せるだけだ。
結果としてなんら問題はないのだけれど。
の身体は動こうとしない。
―――もし、もしも剣心が、この状況から自力で脱することができないほど、鈍っているのだとすれば………。
その予感は、の体温をゆっくりと低下させる。
こんな所で負けてしまうほどに、弱くなったのであれば。
何のために、私は…………。
「…………!」
その時。
斎藤の手によって宙へと吊り上げられていた剣心の腕が、苦痛にもがきながらも身じろぎするのが、そちらを見据えるの目に映った。
「無駄だ! 悪あがきはよせ!」
勝ち誇るでもなく、そう叫ぶ斎藤。
しかしその声が完全に消えてしまう前に、激しい衝撃音がその場に響き渡った。
「がはっ―――!」
斎藤の上体が大きく後ろへ傾ぎ、なおも倒れるまいと踏ん張った膝が道場の床で身体を支える。
対する剣心は、宙吊り状態から脱出し地に足をつけたことで、急激に流れ込んでくる空気を必死で取り込んでいた。
「………これが、幕末の戦い……」
あたりは一瞬、二人の激しい息づかいのみが支配する静寂に満ちる。
誰も動くことができない。
漏らされた言葉は空しく空中に消えて。
誰もが万策尽きたと考えたあの瞬間、剣心は己の腰に帯びていた刀の鞘で、自分を締め上げる斎藤の顎をしたたかに打ち上げたのだ。
誰にも予想し得なかった攻撃。
先ほど斎藤が繰り出したベルトも、剣心のこの行動も。
道場で剣術を修める薫や弥彦はもちろんのこと、少し前まで喧嘩屋で名を馳せていた左之助ですら、二人の攻撃は予想の範疇を超えていた。
圧倒的な戦いを見せられ、ただただ息を呑むしかできない。
「―――次の一撃が、最後の一撃になる」
疲弊してなお、衰えることを知らない二人の殺気に冷や汗を伝わせながら、左之助がそう言った。
生か死か、それとも相打ちか。
この戦いの果てにあるものは、間違いなく死なのだと。
そのことをあらためて思い知らされる。
薫の瞳に新たに浮かんだ涙は、とめどなく零れ落ちて。
勝っても負けても、剣心はいなくなる。
自分たちの前から、自分の前から。
いなくなってしまう。
止めなくては。
薫は衝動に突き動かされるまま立ち上がり、剣心の背中に手を伸ばそうとした。
しかし。
「―――っ!?」
後ろから肩を掴まれて、咄嗟に振り返る。
そこには、まっすぐに剣心たちを見据えているの姿。
「…………、さん?」
訝しげにしている薫を見ることはなく、すっと足を踏み出した。
「おいよせっ、いくらおめぇでも………!」
「っ!」
左之助と弥彦の声を背中に聞きながら、は腰の刀に手を添える。
「そろそろ終わりにするか」
「そうだな」
完全に互いのことしか見えていない二人は、そう言って再び構えをとった。
これで決着がつく。
十年ぶりの戦いが。
この一撃で。
極限まで張り詰めた空気が、わずかに震え。
それを合図に、互いの咆哮が響き渡った。
「おおおお!」
斎藤の拳と、剣心の鞘と。
それぞれが、狙った場所へと繰り出されたその瞬間。
「―――っ!?」
「―――っ!?」
眼前に突然割って入ってきた黒い影に、二人は両の目を見開いた。
動きにあわせて流れるのは、一つにまとめられた長い黒髪。
まるで川を流れる清水のように、影は凛と冴えた刀身の光を携えて、猛然と繰り出された二つの攻撃のことごとくを阻んだ。
斎藤の首にはぴたりと白刃が突きつけられ、剣心の鞘もまた、小刀を沿わせた腕で受け止められている。
それは一瞬の出来事だった。
が二人のもとへ向かう姿を見ていた薫たちにさえ、なにが起きたのかわからないほどに。
まるで時間が止まってしまったかのように、その場にいた全員が驚愕に息を呑む。
「―――引け、斎藤。剣心、おまえもだ。これ以上は、見過ごせない」
低く押さえられた声が、有無を言わさぬ口調で告げる。
斎藤の首にある刀は、わずかでも動けばその喉を掻き切るだろう。
二人を交互に見据えるの瞳は、底冷えするような殺気を静かに湛えている。
「………邪魔をするな、。貴様の相手は後だ」
「………、下がってろ」
斎藤は無論のこと、剣心すら水をさしたへと鋭い視線を向ける。
しかしはまったく怯んだ様子もなく、二人を一瞥して抑揚なく言い放った。
「聞こえなかったか。これ以上は、見過ごさないと言ったんだ。続けるつもりなら、たった今から相手は私だ」
それは斎藤のみならず、剣心にすら向けられた言葉。
三人の気迫が拮抗する。
鬼神のごとき形相でこちらを見下ろす斎藤の視線にも、剣呑な光を湛えたままその鋭さを増す剣心の瞳にも、はただその深淵の水面のような、揺らぐことのない殺気だけを湛えて、怯むことはなかった。
そこにあるのは無言の攻防。
再び沈黙がその場を支配しようとした、その時。
「やめんか!!」
空気を震わす大音声が、その場の全てを打ち砕いた。
剣心や斎藤、を含めた全員の意識が、一斉にそちらへと向く。
警察の制服に身を包んだ小柄な男。
しかし、たった今まで事を構えていた三人にも負けず劣らぬその気迫は、明らかにこの男の大きさを物語っていた。
「正気に戻れ、斎藤! 抜刀斎の力量を測るのがお前の任務だったはずだろう!」
血にまみれ、今もなお白刃を前にして引こうとしない斎藤が、首だけをめぐらせて男の方を睨みすえる。
「今いいところなんだよ。あんたといえども邪魔は承知しないぜ」
言った斎藤の、吊り上げられた口角が怖い。
けれどそれも、次に響いた新たな声によってなりをひそめた。
この場にはどこか不似合いな、落ち着き払った男の声。
「君の新撰組としての誇りの高さは私も充分に知っている。だが―――」
「―――!」
闖入者の後ろから現れたその人物を見とめた瞬間、寸分の揺らぎもなく斎藤に突きつけられていたの刀が、ぴくりとその刀身を振るわせた。そして、ゆっくりと切っ先が下ろされる。
その瞳は、驚愕に見開かれて。
剣心の鞘を受けていた左腕も負荷を離れ、沈めていた身体を起こして戸口へと向けた。
そこに立っている男の姿を、あらためて目にして。
次の瞬間には、眉間に深い皺が刻まれた。
不快からではない。
その瞳が宿すのは、驚きと非難の入り混じった光。
なぜ、ここにいるのかと。
ここに、剣心や自分の眼前に、いてはならないはずのあなたが。
なぜ、いるのかと。
その目が語る意味を知るのは本人と、向けられている当人だけ。
「私は君や緋村―――そしてにも、こんな所で無駄死にして欲しくないんだ」
「……………」
男はそれでもなお、声にも劣らぬ穏やかな眼差しで、剣心と斎藤、そして抜き身を手にしたままこちらを凝視するの顔を、まっすぐに見て言う。
「そうか、斎藤一の真の黒幕はあんたか………」
鞘を携えたまま、低く唸った剣心の鋭い眼光が相手を射た。
元薩摩藩維新志士、明治政府内務卿―――。
「大久保利通」
事実上、明治日本の権力を一手に握る大物の登場は、薫や左之助たちから言葉を奪うには十分だった。
皆あっけに取られ、その男に視線を集める。
一人お子様の弥彦だけが、誰だよこのヒゲはとわめいていたが、左之助や恵に説明されて、良くはわからないもののとりあえずお偉いさんなのだということは理解した。
大久保はその場にいる全員の視線を受けながら、穏やかな表情を崩すことなく剣心とを交互に見て口を開く。
「手荒なまねをしてすまなかった。だが我々にはどうしても、緋村の力量を知る必要があった………。話を、聞いてくれるな」
それは要請ではなく確認。
剣心は頷くだろうという確信の下でなされた問い。
「ああ、力尽くでもな」
そして案の定、少々物騒ではあったものの剣心は首を縦に振った。
大久保は、へと視線を移して。
「………謝って済む問題でないことはわかっている。だが、事は急を要するのだ」
「……………」
の表情は変わらない。
眉間に寄せられた皺と、鋭く研ぎ澄まされた眼光と。
それらは変わらず、大久保に向けられていたのだけれど。
しかしは、わずかに視線を俯けることで了承の意を示してみせた。
「フン………久々に熱くなれたっていうのに、途端に白けちまった。決着はまた次の機会に後回しだな」
落としていた上着を拾い、肩にかけた斎藤がそう吐き捨てる。
「命拾いしたな」
「お前がな」
互いに剣呑な空気を発しつつ、斎藤は剣心の脇をすり抜けて出口へと向かった。
途中、一瞬歩調を緩めてを一瞥する。
「………二度目はない。そう思え」
「どうだかな」
斎藤の物騒な言葉にも眉一つ動かさず、は刀を鞘に収めながら短く応えた。
一度も視線を向けないまま。
「斎藤!!」
「任務報告!」
いまだ語気荒く自分を呼び止める警視総監に、斎藤はすれ違いざま低く声を張る。
さも煩わしいといった口調で。
「緋村剣心のほうはまったく使い物にならない。が、緋村抜刀斎ならそこそこいける模様―――以上」
淡々と一方的に言い捨てて、斎藤はそのまま夜の闇へと姿を消した。
後に残されたのは、警視総監の苦々しいぼやき。
壬生狼の考えていることはわからんとこぼす川路を見やってから、大久保は剣心とに向かって切り出した。
「外に馬車を用意してある、来てくれ」
「寝惚けるな」
しかし、それは剣心の一言によって切り捨てられる。
その辛辣な口調は、剣心がいまだ過去の感覚に捕らわれたままであることを示していた。
それに気づいたが、心の中で嘆息して剣心を振り返る。
「この一件に巻き込まれたのは俺とだけじゃ―――」
「剣心」
静かだが、有無を言わせぬ調子の声。
剣心は出かかっていた言葉を呑みこんで、そちらへと目をむけた。
そこには真剣な表情でこちらを見つめているがいて。
その顔には、どこか呆れの色がうかがえた。
剣心は視線を交わしたまま、しばしその動きを止める。
「…………」
「……………」
沈黙したまま動かない二人を訝しげに思った薫が、声をかけようとした時。
「けんし………」
バキッ―――!
凄まじい音と共に、剣心の拳が自身の眉間に叩き込まれた。
以外の全員が目を丸める。
すわ乱心かと、誰もが思った。
しかし。
「………この一件に巻き込まれたのは、拙者とだけではござらん。話はここにいるみんなで聞く」
眉間から新たに血を滴らせながらも、顔を上げた剣心の口調や纏う空気は、皆がよく知る彼のものへと戻っていた。