12 埋めるがごとく
さやさやと、葉の擦れる軽い音が周囲を満たし、それ以外の音が一瞬身を潜めてしまう。
強く風が吹けば、おそらく話す声さえかき消されてしまうだろう。
だからこそ。
ここは、竹の生い茂る竹林は、昔から精神統一に丁度いい。
は瞼を閉じたまま、一本の竹に身を預けて座り込んでいた。
左之助の意識はまだ戻らない。
剣心は、また何かを考え込んでいる様子で。
それを心配しながらも、剣心が纏う空気のせいで、声をかけられずにいる薫さん。
誰もが、言い知れない緊張感を感じているのがわかる。
笑顔を浮かべていても、拭いきれない不安が胸の奥に沈殿しているような。
思えばこういった雰囲気は、神谷道場に世話になるようになってから、初めて感じるような気がする。
剣心に出会ってからこちら、思いがけず平穏な日々が続いた。
にぎやかな仲間に囲まれて。
刀を抜くこともせずに。
―――剣心に会ったなら。
旅立つ前に考えていたそれとはあまりにもかけ離れた現実に、最初は戸惑いもおぼえた。
自分には、成さなければいけないことがある。
そのために、剣心を探していたのだから。
けれどいつのまにか、この平穏を自然なことのように受け止めようとしている自分がいる。
ともすればこのままずっと、ここで生きていけるのではないかと。
そんなことを漠然と感じてしまうほどに。
「―――……」
不意に、頭を締め付けるような頭痛に襲われ、は瞼を閉ざしたまま眉をひそめた。
ここしばらく、忘れていたその感覚。
再び始まったのは、そう、あの夢を見た夜からだ。
血溜まりに沈む、三人の姿。
閃く白刃。
それらの光景が、昼の日中にあってなお鮮やかに、脳裏に瞬く。
どろどろとした、鈍重な痛みと共に。
けれどその不快な感覚に、どこか安堵を覚えている自分がいて。
細く、ゆっくりと息を吐き出す。
赤と、闇。
それらは幻聴を伴って、身体の奥底を侵食してゆく。
暗く、冷たい。
そこが自分のあるべき場所だと。
この暖かな場所にいる今の自分に違和感をおぼえ、自覚する。
身に余る幸せに、浸りすぎたのかもしれなかった。
「―――」
は一旦そこで思考を閉ざし、強さを増す頭痛に軽く頭を振った。
とたんに身体を満たす竹林のざわめき。
一つ深呼吸をして、再び思考の淵へと沈む。
あの日、左之助が襲われた日。
藤堂に呼び出され、交わした会話を思い出す。
路銀がたまったとかで、すっかり旅支度の整った藤堂と交わした言葉。
真っ先に聞かれたのは、仕事のことで。
『やめたよ』
と、一言告げれば、あっけにとられて間抜け面をさらしていた。
やめられるはずがない、と。
その性質上、簡単にやめられるはずはないのだと知っていた藤堂は、それでも桂さんの名前を出した時点で納得したようだった。
病床の彼の人が、自分を枕辺に呼んで告げた内容をかいつまんで説明してやれば、なぜか藤堂は何かを悩むような仕草を見せて。
彼の性格から、珍しいこともあるものだと思って眺めていると、不意に真剣な顔をしてこちらをみやる。
『だったらこいつぁ、おまえに話すべきじゃないかもしれんが………』
と、まったくもって彼には珍しく、慎重に前置きなどをした上に、またもや口をつぐんだ。
明日は雨かもしれないと空など仰ぎ見てみる。
いつもならここですかさず、藤堂の非難の声があがるのだけれど。
しかし藤堂は、しばらく逡巡する様子を見せた後、怪訝な顔をしているに向かって、低く、告げた。
『―――京が動くぞ』
そう一言。
『志々雄真実が、生きてやがる…………』
藤堂の声は、静かで、ひどく冷たいものだった。
―――生きている。
―――志々雄真実が。
その言葉の意味を理解するのに、時間など必要ない。
もう足を洗ったのならしばらく京には近づくな、という藤堂の言葉は、ほとんど耳には届いていなかった。
思考は更に過去へと流れ出し。
『おまえが、志々雄真実か―――』
幕末の、時代の流れがより激しさを増していたころ。
初めて会った奴は、ひどく熱い目をしていた。
底冷えのするような熱さ。
発達した剣客としての第六感が、危険だと知らせる。
己の力を知らしめすために、笑って人を殺せる男。
人斬りに魅入られるよりすでに、そいつの中には狂気があった。
言葉を交わしたのは数えるほどで。
『あんたみたいな女は嫌いじゃない』
いつだったか、そう言ってにやりと笑ったその顔が忘れられない。
人をからかうような、けれどどこか真剣な。
常に狂気を孕んでいたその男は、が抜き身を突きつけたその時ですら、うっすらと笑みを浮かべていた。
剣呑な、笑みを。
おとしいれられたあの場で。
この男の危険性を知る者たちによって、万全を期して集められた幾人もの志士たちに取り囲まれながら。
多勢に無勢。
お膳立てされていたその状況を、はわざと崩した。
真っ先に切り結んで、誰にも割り込めない空気をつくりあげる。
せめて、せめて。
不意打ちに、何も知らず惨めに死んでゆくよりは。
『―――一度戦ってみたい』と。
やつが言ったこの剣で。
剣客らしく、戦いの場で死なせてやろうと。
それが、自分にできる精一杯の手向けだと。
我ながら、ずいぶん勝手な言い分だと思いながら。
けれど選んだ道に、岐路などはなくて。
勝負は程なくしてついた。
志々雄の身体を斬りつけて、沈むそれを無言で見下ろす。
見届け役の者たちが志々雄に近づいていくのを、視界の端に収めながら踵を返した。
『―――ご、ご苦労だった、報告はこちらでしておく。報酬は後日使いを………』
『悪いが』
ただでさえ腰が引けていた新政府の役人らしき男を一睨みして、志々雄を斬った刀を鞘へと収めた。
いつになく鋭く研ぎ澄まされた気を、隠すこともせずに。
『いまは、そんな話をしたい気分じゃない。どいてく………』
そのままその場を離れようとした時、背後から聞こえてきた音に首をめぐらす。
水音。
しかしそれは水ではない。
独特のにおいを放つ、油。
倒れ伏している志々雄の身体に惜しげもなく浴びせられて。
『………おい、なにをしてる』
やつを取り囲む連中にそう問えば。
返ってきたのは無表情にこちらを見やる、この場の責任者の声。
『確実に殺せとの命令だ』
その一言で、松明から火は移されて。
『―――っやめろ!』
飛び出す自分を止めようとした人間を殴り倒し、行く手を阻む連中を鞘ごと抜いた刀で蹴散らした。
着ていた羽織を脱ぎ、必死で炎に叩きつける。
微動だにしない志々雄の身体を包む炎に向かって。
『………もうよさないか。どうせそいつは、すでに死んでいる』
『だったら!』
火に焼け焦げた羽織を握りしめたまま、勢い良く振り返った。
奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばって。
『だったら何故こんなことをしたっ!? こんな………これが新政府のやり方か―――!』
死んだ者をおとしめるような、こんな行いを。
けれど、責任者の男は眉一つ動かさず。
『それも、これから始まる新たな国のため―――』
そう平然と言う男の顔が驚愕に歪んだのは、背後で風が起こったのとほぼ同時だった。
両脇をすり抜けるように吹き抜けていった風。
それと同時に舞う血飛沫。
両脇にいた二人の男が、断末魔の声をあげて倒れ伏す。
振り返ったすぐ目の前に、焼け焦げた刀を手に立ち上がっている志々雄がいた。
ぎらぎらと、異様に光る双眸がこちらを捉える。
それに魅入られでもしたかのように、身体が動かなかった。
やつは刀を持ったままなのに。
現に二人、殺しているのに。
次の標的は、自分。
一番近くにいて、さらに己を手にかけた張本人とくれば。
全身黒く焼け焦げた男の身体がゆらりと揺れる。
来る、と思った次の瞬間。
しかし、予想していた斬撃は襲ってこなかった。
やつが振るった刀は確かにあたりを赤く染め上げたのだけれど。
反射的に刀を抜いた手をそのままに、呆然と首をめぐらせた視界に映ったのは、責任者の男を含めた十数名を斬り殺し、その場から逃げおおせる志々雄の後ろ姿だった。
「………………」
は閉ざしていた瞼をそっと上げる。
目に飛び込んでくるのは、鮮やかな緑一色の世界。
一つ息をついて、身を起こした。
ここでこうしていても、詮無いことを考えるばかりだ。
志々雄は確かにあの場から逃げ出した。
捕まったとも聞かなかった。
だが、あれだけの傷と火傷を負いながら、まさか生きてはいないだろうと考えていた。
その志々雄が生きている。
そこまで考えて、再びは目を伏せた。
いまは志々雄のことを考えているときではない。
左之助の意識は戻らず、犯人であろう男はこのまま潜んでいるような玉ではないことは明白で。
必ず合いまみえることになるだろう。しかも、近日中に。
はたして目的は剣心か自分か。
先日剣心にああは言ったが、おそらくいざ決闘のときとなれば、剣心が真っ先に剣を抜くに違いない。
ずいと前に出て。
―――拙者が相手でござる。
とかなんとか言って。
おそらく一人で、全てを背負おうとするのだろう。
はわずかに苦笑を浮かべて、緩慢な動作で立ち上がりゆるゆると歩き出した。
竹林を出て東京の街に足を向ければ、少なかった人通りもだんだんと増えてくる。
剣心は、昔から強情なところがあるから。
言い出したら、頑として聞かない。
今もまだしつこく悩んでいるようだし。
剣心の今朝の様子を思い出して、ふと思った。
苦労性というやつかもしれない。
そんな彼に、己の望みを託すのはいささか気が引けるのだけれど。
それでも、それが自分の成すべきことなので。
剣心にしか果たすことのできない望み。
だから、こうして探し出したのだ。
もうすぐ、命日が来る。
夢の中の彼らが訴えている。
成すべきことを成せと。
珍しくぼんやりとしながら歩いていたは、神谷道場の裏手に差し掛かったとき、その空気の違いに一瞬で意識を覚醒させた。
異常を感じ取ったことで、全身の神経が研ぎ澄まされる。
塀の向こうから聞こえた轟音。
肌に感じる殺気だった気配。
いや、懐かしさすら覚えるそれは、殺気そのもの。
「――――ぇ!」
薫さんの叫びのようなものが微かに耳に届いた。
駆け足で表へとまわる。
門をくぐるなり道場の方へ目をやって。
予想していた事態が実際に起こっているのだと知り、なぜか急速に体温が落ちていくのを感じた。
あの日、左之助が倒れているのを見つけたときから、避けられないことだとわかっていたからだろうか。
先ほどまでの焦燥はどこへ行ったのか、はゆっくりとした足取りで、騒ぎの元へ向かって足を踏み出した。