11 狼
異変に気づいたのは、まさしく昔とった杵柄。
藤堂の呼び出しから戻る、その道すがら。剣心たちはまだ帰っていないだろうな、などと考えながら悠々と歩みを進めていて。
神谷道場の門を視界に納めた、その時だった。
春の穏やかな風にわずかに含まれるそれ。
自身の感覚が見逃すはずがない。
―――嗅ぎなれた、鉄の匂い。
わずかに眉間に皺を寄せて、刀に手を添えながら足を速める。
中の気配を探りもせずに、木戸を引き開けた。
「―――」
真っ先に目に飛び込んできたのは、道場の壁に穿たれた大きな穴。
外側に落ちている瓦礫はどれも小さな物ばかり。
それだけ確認すると、は駆け足で道場の戸を音高く開いた。
「―――左之助っ!」
血の匂いがより強く鼻腔をつく。
道場には瓦礫が飛び散り、その床は鮮やかな赤に染まっていた。
はその惨状に驚くと共に、仰向けに倒れている左之助に駆け寄る。
右肩に深々と突き刺さったままの折れた剣先。
出血量から見て、それほど時間がたっているわけではなさそうだ。
左之助の口元に手をかざせば、弱々しいながらも呼吸を感じる。
「………しっかりしろ」
左之助に意識はなかったがそう声をかけて、二つに裂いた手ぬぐいで左之助の胸の上あたりをきつく縛って止血を試みた。
折れた切っ先が栓の役割を果たし、出血量は最小限に押さえられてはいたものの、傷は深く、新たな血液が次々に床を濡らしている。
応急処置で持ちこたえられるような状況ではないだろう。
とにかく診療所へ医者を呼びに走ろうと、立ち上がったとき。
「―――……左之!」
驚愕に目を見開き、珍しく声を荒げている剣心と、その後ろの面々を確認して、はわずかに驚きの表情を浮かべた。
*
もうすでに、外には夕闇が迫っている。
行灯のない道場は薄暗く、ひっそりとして。
母屋の騒ぎが、まるで別世界のことのように。
「………暗い」
しかし、その沈鬱とした空気が支配する空間に何の前触れもなく、どこか間の抜けた感さえただようそんな呟きが、戸口の方からぼそりと漏らされた。
「………」
道場の壁に大きく口を開けた穴と、その場に残されていたここのものではない薬箱と。そして、左之助の肩に深々と突き立っていた刀の切っ先を見比べて、一人ひどく深刻な面持ちをしていた剣心は、彼女の突然の出現にわずかに驚きの声をあげる。
「左之の容態は………」
「一命はとりとめたってさ。いま恵さんが包帯でぐいぐい縛り上げてる」
蝋燭立てを手にこちらへ歩み寄りながら言うの口調に、剣心は頬を緩めて軽く笑った。
「そうでござるか………。恵殿に任せておけば心配はないでござるな。もとより左之の体力はゴキブリ並なことだし」
いつもと同じ、穏やかな様子をみせて笑う剣心の横を、は無言のまま通り過ぎて蝋燭立てを音もなく床に置いた。
小さな炎が揺らめいて、の影を足元から長く伸ばす。
はそのままおもむろに身を起こし、しゃがんでいる剣心の顔をじっと見つめたかと思うと、
「暗い」
と、再び唐突に、そう一言呟いた。
呟かれた剣心はといえば、きょとんとした顔をして。
「―――おお、そういえばもうこんな刻限でござるか。どうりで外もすっかり暗く……」
「ちがう」
格子のはまった小さな窓から外を見やった剣心を、は短く切って捨てる。
身も蓋もないとはまさにこのこと。
剣心はなす術もなく、言いかけた言葉の形に口を開いたまま、の顔を見やるしかない。
そこには、冷たい印象さえ受ける無表情のまま自分を見下ろす双眸があって。
「?」
どうすることもできずに首を傾げれば、ようやくその顔は動きをみせてくれた。
は自身もかがんで、床の上にあぐらをかく。
「剣心が、暗い。なにやら思いつめてるのがまるわかり」
「……………」
にそう指摘され剣心は最初、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、またすぐにあの真剣な面持ちへと変わった。
手にしていた折れた切っ先に視線を落として。
「には、かなわぬでござるなぁ」
口調だけは流浪人の剣心に、はわざと尊大に応えてみせる。
「わかりやすいんだよ、剣心は」
しかしその口調とは裏腹に、の表情が緩められることはない。
剣心が無意識の内に、いつもの自分を取り繕おうとしていたことなどすべてお見通しだとでも言うように、は剣心の顔をまっすぐに見すえた。
再び二人の間に沈黙が落ちる。
前にも増して暗くなっていたけれど、今度はも何も言わなかった。
細められた剣心の視線からは、一種殺気のようなものさえうかがえる。
残されていた薬箱にある印。左之助の傷口に水平に突き立っていた折れた切っ先。そして何より、丈夫なつくりの道場の壁に大穴を穿つその破壊力………。
「………『牙突』」
がそう呟けば、剣心はわずかに眉をひそめ手の中のそれから視線を上げた。
その双眸は一層鋭さを増す。
夜気が流れ込んでくる破壊跡を睨みつけて。
「目的は、なんだろうな」
「………わからぬでござるよ。ただ」
の声に応えながら剣心はすっくと立ち上がり、おもむろに腰に帯びた逆刃刀へ手をかけた。
そのまま傷口をあけている壁とは違う場所へと足を向ける剣心を、は無言のままに視線で追う。
一定の歩調を保っていた剣心の身体は、壁の前に来たところで瞬間的に沈められた。
そしてその瞬間にはもう、珍しい逆刃の鞘走る音と共に、道場の土壁へとその切っ先が打ち込まれている。
ガキィ――ッ!
硬質な音が、夜の静寂を切り裂いた。
「…………」
しかし、頑丈な壁は大きなひびを刻んだものの、破壊されるまでには至らなかった。
侵入者が残した爪痕と比べれば、あまりにも貧弱なその結果。
剣心は引き抜いた刀に視線を落として呟く。
「―――ただ、やつの剣椀は十年を経た今もまだ、まったく衰えてはいない。壬生狼と呼ばれた、あの頃のまま」
もし相手の望みが過去の決着ならば、逆刃のまま、不殺のままで退けられるだろうか。
もうとっくに答えは出ているはずのそんな問いが、剣心の口から漏れ出ることはない。
は剣心のその様子をただ無言で眺めているだけだ。
流れ込んだ夜風に揺らめいた蝋燭の炎が、二人の影を同じように躍らせる。
「………まだ、目的が剣心だと決まったわけじゃないさ。ここに私がいることを、やつが知らないわけがない」
過去の決着をと言うのなら、も剣心と同じ立場に違いない。
むしろ、遊撃剣士としての期間が剣心よりも長かったのほうが、新撰組と直接相対する機会は多かったのだ。
因縁と言うのならば、どちらがどうと言うことはできないだろう。
「それにあいつのことだ。もしかしたら、二人まとめて相手してやるとか言うかもしれないし」
「………ありえない、ことはないでござるな………」
しばし思案して、剣心もこくりと頷く。
生きているのならば、あの時つかなかった雌雄を決する。
そのためには手段も選ばない心づもりであることは、今回の左之助の件でいやと言うほどわかっている。
それならば、その申し出を断る選択肢も残されていなかった。
しかし挑戦を受けるとして、果たしていまの自分に、この神谷道場の面々を守りながら戦うことができるだろうかと、剣心は知らず知らずのうちに思考をはじめる。
十年の時間がもたらした、現段階での力の差。
ましてや自分は、不殺を誓った身で。
それがどういうことか、自覚していないほど愚かではないつもりだ。
覚悟のうえで、この道を求めたのだから。
けれど………。
「その時は、私が先だ」
思考の淵に沈んでいた剣心は、そんなの声に顔をあげた。
「私が先に戦う。そうして、必ず刀の錆にする」
身じろぎしながらなんでもないことのように言うの横顔は、微笑みらしきものを浮かべていて。
「?」
どういう意味かと視線で問えば、不敵な光を灯した瞳がこちらを見返した。
まっすぐに、こちらを見返してきて。
「因縁があるのはこっちも同じだろう? 私は、どうせやるなら万全の状態のあいつとやりたい」
微笑んだ顔はやさしいものだったけれど、その瞳は違っていた。
薄絹のようなものに包まれ、その輪郭をぼやけさせてはいるが、それは間違いなく殺気。
多くの剣客が持つ必殺のそれとはまた違った、特有のそれは、昔隣に感じていたものと寸分の狂いもない。
「剣心には、譲らない」
そう告げたに、剣心はわずかに目を見開いた。
が纏っているのは殺気。
浮かべた笑顔に宿るのは、戦う者の冷たい興奮。
獲物は譲らないと。
そう告げるのは、まさしく生死の駆け引きを望む者の声なのだけれど。
しかし剣心は、その言葉の裏に隠された意味を知る。
―――剣心には譲らない。
―――剣心には戦わせない。
不殺を誓った自分に、死闘をさせたりはしない。
好戦的な空気で巧妙に隠された、それがの真意。
なぜ気づけたのだろう。
昔はあんなにも、簡単に騙されていたというのに。
騙されて、守られたことにも、助けられたことにも気づかずに。
きっと何人もの同志が、こうして彼女に救われたのだろう。
不器用ともいえるその優しさに、剣心は不意に笑みを浮かべた。
訝しげな顔をするに笑いかけて。
「やつがそう素直に応じてくれればいいが。あの男は一筋縄ではいかぬでござるよ」
「…………たしかに」
考え込むように顎に手をやったを、剣心はひどく穏やかな顔で見やる。
それはいつもの、取り繕ったものではない流浪人の顔だった。
「………ときに剣心」
「なんでござるか?」
手にしたままだった刀を収める剣心をちらりと見やり、はおもむろに指差して言う。
「それ、怒るんじゃない? 薫さん」
「………はっ」
の指す先には、先ほど剣心が思い切り刀を打ち込んだ壁。そこにできた新たな傷とひび。
「しまった、つい………」
思わず言葉を漏らした剣心の額には、先ほどまでとは違った緊迫感から発する冷や汗が一筋流れていた。