10 動き出す
「おーい、、ー!」
いつも元気の良い声が、この日も変わらず神谷道場に響き渡った。
しかし、今日はどうやら人を探しているらしい。きょろきょろと周囲を確かめながら、口元に手を当てて声を張っている。
「どうしたでござるか、弥彦?」
「ああ、剣心」
、と呼びかけながら庭の方へ回ろうとしていたところに、土間からひょっこりと赤毛が顔をのぞかせたのを見て立ち止まった。
胴着の肩に竹刀を置いたまま尋ねる。
「がどこにいるか知らねぇか? あいつ宛に手紙がきてるんだよ」
「手紙?」
剣心は顔だけ覗かせていたのをいったん引っ込め、手にしていた包丁を置くとあらためて土間から外へ出た。
竹刀とは反対の手に弥彦が持っている白いそれを見る。
「に手紙とはめずらしいでござるな。だが、あいにくなら、少し前にお使いを頼んだでござるよ」
昼食の支度に使う豆腐を買いに行ってもらったのだ。
しかもあやめとすずめを連れている。
順調に行けばもう帰っていてもおかしくない頃なのだが、好奇心満載の幼子を二人連れているのでは、いつ帰ってくるやらわかるものではない。
「もうそろそろ帰ってくるころとは思うが………。には拙者が渡しておくでござるよ」
「おう、たのむぜ」
そう言って、剣心の手に宛の手紙を手渡したちょうどその時。
「ただいまー!」
「たらいまー!」
二つの高らかな声と軽い足音が、玄関先のほうから響いてきた。
いったんは遠ざかったそれが、完全に消えることなくこちらへ向かってくる。
「ちょうど帰ってきたみたいだな」
「うむ」
声のする方を二人で見ていると、小さな二人の幼子と大小を提げた大人の姿が同時に現れた。
どうやら幼子二人は、勢い余ってどこか別のところへ駆け出していたらしい。まっすぐにこちらへ向かってきたに追いつく形で、三人は同時に姿をあらわしたようだった。
「ただいま。はい、剣心。豆腐」
足元を駆け回るあやめとすずめに足を取られないようにと気をつけながら、は手にしていた桶を剣心に手渡した。
白い二つの塊が、満たされた水の中でゆらりと泳ぐ。
「ああ、すまぬな」
紐で着物の裾をたくし上げた剣心は笑顔でそれを受け取り、代わりに先ほど弥彦から預かった手紙を差し出した。
「なに?」
とりあえず受け取ったは首をかしげる。
「手紙でござるよ。宛の」
「なんだよ、心当たりねぇのか?」
預かった当人の弥彦が、腰に手を当てての手元を覗き込んだ。
”
殿”と黒墨で大きくしたためられた白い封書である。
達筆というわけではないが、見苦しいわけでもない。
「さぁ? 手紙を貰うような人間に心当たりは…………」
言いながら封書の中身を取り出して開いたところで、は言葉を切って、ああ、と呟いた。
拍子抜けしたような顔をしている。
「知り合いでござるか?」
弥彦のように手元を覗き込むようなことはしていなかった剣心が、そんなの様子を見て問いかけた。
は初めの二、三行を見ただけで顔を上げ、剣心を見やる。
「藤堂だ。ほら、前に話しただろう。甘味所で会ったって」
の言葉に剣心も納得して、ああ、と頷いた。
「そう言えばそうでござったな。ずいぶんと懐かしい名だが………。しかし、なぜわざわざ手紙を送ってきたのでござろう? 藤堂殿は筆まめではなかったと思ったが」
何か伝えたいことがあるならば、文をしたためる前に本人の下へと走り出すような人間だ。
手習いは人並みにこなすが、自分から進んでやることはない。
しかしはさして気にした様子もなく、また紙面に目を落とした。
「さぁ………あいつは昔から何をするかわからない奴だから」
手紙の内容を読み進みながらそう答えるを見やり、
(あのおっさんも、にだけは言われたくないだろうな)
と、一種同情にも似た気分で弥彦は思う。
おそらくこの場に藤堂本人がいたならば、間違いなく同じことを口にしていたに違いない。
「兄、おてがみなの?」
「おてがみなの?」
しばらく二人して元気に走り回っていたあやめとすずめが、大人たちの様子に興味を引かれて寄ってきた。
手紙に目を走らせるを見上げている。
「おお、あやめちゃんにすずめちゃん。買い物は楽しかったでござるか?」
「うん! たのしかった!」
「たのしあった!」
剣心がそんな二人に笑顔を向けて、視線を合わせるようにかがんで問いかけた。
嬉々として答えた二人は、剣心に頭を撫でられて嬉しそうにしている。
しばらく無言で手紙を読んでいたが、おもむろに白いそれを折りたたみ、懐へとしまいこんだ。
そして、かがんでいる剣心を見下ろして言う。
「剣心、悪いけど私の分の昼食はいらなくなった」
「出かけるでござるか?」
手に水を湛えた桶を持っているにもかかわらず、危なげなく立ち上がった剣心がを見やる。
野暮用なんだとが答えようとした、その時。
「ああ、ここにいたのね、みんな」
庭の方から、藍色のリボンで髪を結い上げた薫が歩いてきた。
その後には、あやめとすずめの祖父である玄斎もいる。
「おじーちゃん!」
それを見つけた幼子二人は、嬉々としてそちらへかけていった。
「どうしたでござるか、薫殿」
剣心が問えば、薫はなんともいえない怪しげな含み笑いをこぼし。
「うふふふ。なんと今日のお昼はね、玄斎先生が牛鍋をおごってくれるって!」
うれし気にそう答えた。
それを聞いたあやめとすずめが、目を輝かせて祖父を見上げる。
「おろ? しかし拙者、もう昼の支度を始めてしまって………」
「いいじゃねぇか剣心。それは夜にまわせば」
弥彦もまんざらではない様子で、竹刀を肩にかけたまま剣心をつつく。
もうすっかり、その場は牛鍋ムードに染まっていた。
薫は弥彦に、着替えていらっしゃいと言う。
これでもう、今日の昼は牛鍋に決定したも同然だ。
剣心は手にしていた豆腐の入った桶を台所へ置いてくると、袖をたくし上げていた紐を取り去る。
ものすごい速さで着替えを終えた弥彦が駆けて来たのを合図に、薫が元気良く掛け声を上げた。
「さあ! みんな準備はいいわね、いくわよ!」
「あの、ちょっとごめん」
弥彦とあやめ、すずめが、薫に答えて声を上げようとしたとき、その場の浮かれた雰囲気にはそぐわない落ち着き払った声が、彼女たちの勢いを殺ぎ落とした。
全員が、その声の主を振り返る。
「盛り上がってるところ悪いんだけど、私は抜けさせてもらうよ」
腰に提げた刀に手を預けたまま佇んでいるだった。
苦笑のような微笑みを浮かべながら、頬を掻いている。
「どうして? さん。なにか用事があるの?」
薫が首を傾げて尋ねれば、はこくりと頷いて。
「野暮用が急にね。玄斎先生、せっかくのお誘いなのにすみません」
はしゃぐ孫二人に手をひかれた玄斎に向かって、几帳面に頭を下げた。
「いや、それはかまわんが………しかし残念じゃのお。いつも孫たちが世話になっておるでな、そのお礼にと思ったんじゃが」
「兄、こないの?」
「こないのぉ?」
大人たちの様子を見て、あやめとすずめがを見つめた。
先ほどまでのはしゃぎようとは打って変わって、眉をハの字にしてしまっている。
そんな愛らしい瞳で下から見上げられ、は苦笑を浮かべた。
「うん。ごめんね。でも薫さんも弥彦もいるし、剣心だって一緒なんだから寂しくないよね」
しゃがんでそう言ってやれば、幼い二人は満面の笑みで頷いて。
は二人の頭をかき混ぜると、立ち上がって皆より先に門の外へ出た。
「、いつごろ帰るでござるか?」
剣心がその背中に問い掛ける。
は肩越しに振り返ると、
「そんなに遅くはならないと思う。あいつのことだから、なにを言い出すかわからないけどね」
苦笑するでもなくそう言った。
あいつというのは藤堂のことで。
先ほどの手紙が藤堂からのものであったことを知っている剣心には、のあいつが誰を指しているのかすぐにわかった。
だから、剣心はに近づいて少しだけ声を落とす。
「、藤堂殿とは連絡を取っていたでござるか?」
「うん?」
思いのほか真剣な剣心の表情に、はきょとんとして間近にある顔を見返した。
そして、ある事に思い至り、くっと喉を鳴らす。
「―――なに、剣心。心配なの? 私と藤堂になにかあるんじゃないかって?」
言いながらも、はこらえきれない笑いを喉からもらしていた。
見当違いも甚だしい危惧を抱いた剣心が、真剣な顔でそれを言うものだから。
のその反応に、今度は剣心がきょとんとしていた。
は笑いをかみ殺しながら、剣心に向かって言う。
「藤堂とは、このまえ甘味所で会ってから一度も会ってないよ。連絡もしてなかった。あいつが三年前に旅に出てから、連絡を取ったのは今日がはじめてだ――――安心した?」
からかうような含み笑いで剣心を見る。
剣心はその言葉の意味をようやく理解すると、慌てたように首を振る。
「せ、拙者はなにも、お主を疑っているわけでは…………!」
それにとうとう我慢しきれなくなる。声をあげて笑いながらくるりときびすを返して歩き出した。
その背中に、用心するに越したことは無いでござるよ! という剣心の声が投げかけられる。
それは一層の笑いを誘った。
藤堂に話してやろうか。
剣心がおまえにやきもちを焼いていたと。
薫たちが剣心を呼んでいる声を背中で聞きながら、はくつくつと喉を鳴らして、おさまらぬ笑いをかみ殺す。
きっと、心底驚くだろう。
そして青ざめた顔でこう言うはずだ。
―――冗談じゃないっ!
はその時の様子を詳細に想像しながら、東京の街並みをはずれの方へ向かって、ゆるゆると足を進めた。