1 強引な偶然
時は明治十一年。
幕末の動乱を経てようやっと、新たな時代を築かんとするこの国の、
ここは中心、東京府。
文明開化の名のもとに、普及したるは西欧の、洋服、建物、ざんぎり頭。漂う匂いにすましてみれば、ほのかに香るは牛鍋の風。
まだまだ名残は消えねども、確かに広がる近代化。
けれどもふと目を凝らしてみれば、あれに見えるは段平の影………。
ピピィ―――ッ!
人々で賑わう往来に、突如として鋭い笛の音が響き渡る。
人々が、なんだなんだと振り返ると、そこには案の定、紺の制服に身を包んだ官憲数名が、いきり立った様子で走って来ていた。
「おい、そこのヤツ! 止まれ!」
振り向いた人々の中で、げっ、とばかりに身を引く人物がひとり。
その腰には立派な刀が提げられていて。
もしかしなくてもそこのヤツというのは、この人物のことだった。
本人にも自覚があるようで、脱兎のごとく駆け出す。
「まて! 貴様、廃刀令を知らんのかぁ!」
知ってるから逃げるんじゃないか、などと呟きながら、人を避けるように逃げる様はずいぶん手馴れていて、追いかけられるのはこれが初めてではないようだった。
「おい、剣心、あれ」
「おろ?」
そのときちょうど味噌屋から出てきた二人組みの片割れが、見ろとばかりに騒動の方向を指差す。
声をかけられた男は、味噌の樽を肩にかけたままその方向に目をやった。
「なんでござるか? 弥彦」
「廃刀令違反って叫んでるぜ」
よく見えないのか、少年が背筋を伸ばし、目の上に手をかざして言う。
同じように伺った人ごみの隙間から、見え隠れする官憲の姿を見とめて剣心はぎくりと身を引く。
「せ、拙者のことでござるか?」
見れば味噌をかついだその腰には、これまた立派な段平が。
しかし弥彦と呼ばれた少年は、呆れ顔で剣心を見上げた。
「ちっげぇよ、誰かほかのヤツだろ。あ、こっちに来るぜ」
弥彦の言うとおり、騒動の発端はこちらへ逃げて来るようだった。
しかし人の数が多すぎて、その姿を見ることは出来ない。
どうやら騒ぎの主は、それほど大きな人物ではないらしい。
そうこうしている間に、警笛を吹き鳴らす官憲たちは二人の前を通り過ぎてしまった。
それを見送った人々が、やれやれとばかりに日常の生活へ戻っていく。
「なぁ剣心、違反者の姿って見えたか?」
二人も同じように動き出し、歩きながら弥彦が剣心を見た。
背が低いこともあるだろうが、弥彦には追いかける警官の姿しか見えなかったらしい。
「ああ、チラッとでござるが、後ろ姿だけ」
後ろになびく、一つにまとめられた黒い髪と、黒く艶めく刀の鞘。
ほんの少し懐かしい感覚がしたのは、久しぶりに自分以外の帯刀している姿を見たせいだろうか。
明治維新からこちら、近代化が叫ばれるようになり、その流れで帯刀を禁止する廃刀令がしかれた。
未だに刀を捨てられない武士もいると聞くが、それでもやはり見かけることは極端に少ない。
御上に許可された一部の官憲以外、帯刀は硬く取り締まられる。見つかろうものなら今のように、追い掛け回されるのが落ちだ。
「でもよ、助けなくてよかったのか? 帯刀仲間だろ?」
弥彦が頭の後ろで手を組んで言うが、その言い回しに剣心が苦笑して。
「別に、仲間というわけではござらんが………」
「なんでだよ。この明治の世に、廃刀令に背いてまで帯刀してるんだぜ?仲間意識とかめばえねぇのか?」
弥彦は少し不満げだ。
彼もまた士族の出。剣術の道を志し、真剣ではないながらもその背には、常に竹刀を背負っている。
帯刀していることで同じ剣の道を歩んでいることを知り、多少なりともそういった思いがあるのかもしれない。
しかし剣心は、困ったように笑みを浮かべる。
「志しを同じくするものであれば、そういうこともあるかも知れぬが………それぞれ事情がござろう。皆がそうとは限らぬよ。それに」
「それに?」
いったん言葉を切った剣心に、続きを促して伺い見る。
「あの者、拙者たちの手助けなど、必要なかったと思うでござるよ」
剣心は呟くように、しかしどこか確信したように言った。
*
人がひしめく表通りから、僅かにそれただけの暗い路地裏に、気配を殺して身をひそめる影がひとつ。
ひとつにまとめた黒髪と、小柄な袴姿、そして腰には立派な刀と脇差が提げられていて。
もしかしなくてもあの騒動の主だと容易に想像がついた。
その小さな影は、用心深く通りをうかがう。
煩い官憲たちの気配はもうないようだ。
上手く巻いたらしい。
ほっと胸をなでおろした。
(刀の一本や二本で大げさな。ちょっとくらい大目に見てくれてもいいと思うんだけど)
自分が違反しているということを棚上げて、そうひとり言ちる。
左手を刀の上に預けると、かちゃりと音が鳴った。
ひどく馴染んだ感覚。
この重みも、感触も、すでに自分の一部となっていて。
時代遅れだとか、取り残された哀れな人だとか言われるけれど、それでも手放すことは出来ないと思う。
おそらくは、一生。
もしかしたら、手放せるときが来るかもしれないが、それは決して今ではなかった。
溜め息をひとつ落として、壁に預けていた身を起こす。
そろそろ騒ぎも収まったころかと、往来に戻ろうとしたときだった。
「うおっ!」
「―――っ」
正面からまともにぶつかって、後ろによろける。
「悪ぃ、大丈夫か」
「あ、いや、こちらこそ。すいません」
ぶつけた鼻をおさえながら相手の顔を見ようとすると、思ったよりずいぶん見上げなければならなかった。
反対に相手はこちらを見下ろしている。
つんつん頭の、赤い鉢巻きをした、少し目つきの悪い青年。
どこか好戦的な雰囲気を漂わせた眼は、今は驚きからか僅かに見開かれていた。
その姿形からして、堅気の人間ではないだろう。
いや、偏見があるわけではないのだが、経験上、そういった空気を読むのが得意だったので。
とにかく、もう一度謝ってその場を離れようと思ったとき、それより先に相手のほうが口を開いた。
「もしかして、あんたか? さっきの廃刀令違反者ってのは」
「え? ああ」
突然の話題にきょとんとしたが、彼の視線が自分の腰にあるものに向けられているのを見止めて、納得した。
「ええ、そうです。見つかってしまって」
左手を刀に添え、ふわりと微笑みを浮かべた。
見下ろしていた相手が一瞬面食らったような顔をする。
どうかしたのかと思い小首をかしげたが、相手の顔にはすぐに不敵な笑みが取って代わった。
「そりゃ、んな堂々と差して歩いてりゃ見つかるだろ」
「べつに、堂々としているつもりはないんですが…………」
苦笑して言う。
「驚かないんですね、帯刀しているのを見ても」
これまでの青年の態度に、不思議に思って聞いてみた。
普通なら、厄介ごとに関わるのはごめんとばかりに避けられるか、あからさまに怖がられるかだというのに。この青年は、少しもそんなところがない。
「ん? ああ、まぁな。おめぇみてぇなヤツを他にも知ってるからよ」
青年の少し乱暴な口調は、彼の気性を表しているように思われた。
長身に、がっしりとした体つき。
無駄な筋肉がついていないことと、彼の纏う雰囲気から、それなりにつかえるのだとうかがえる。
「俺は相楽左之助ってんだ。あんたは東京の人間かい?」
いくぶん声に友好的な色を含ませて、青年が自分を示して言った。
その開けっぴろげな態度に、こちらもにっこりと微笑んで答える。
「です。東京にはつい最近きたばかりで、今は旅籠に」
それを聞いて、左之助は大きく目を見開いた。
まじまじと相手を見おろして。
「てこたぁ、流浪人か?」
意外なほど驚かれて、の方が逆に驚く。
「いえ、単なる旅人です。そんなに大げさなものじゃないですよ」
それがどうかしましたか? と聞き返すと、左之助は後ろ頭をかきながらあからさまにほっとした顔をして答えた。
「いや、俺の知ってるその剣客ってのがよ、流浪人なもんだからついな」
「ああ、それで」
合点がいったと頷く。
剣客で、未だに帯刀していて、それでなおかつ流浪人とくれば、その人と全く同じ境遇になる。驚くのも無理はないだろう。
もっとも、自分は流浪人ではないけれど。
すると突然、左之助がなにを思いついたのか、胸の前でポンっと手を打った。
身長差があるため目の前でそれをされて、はいささか驚く。
しかし左之助はそんなことは気にも留めず、ひどく嬉しそうに、というより、なにやらたくらんでいるような笑みでに視線を合わせた。
「なぁ、あんた、もうしばらくこっちにいるんだろ?」
そんなこと一言も言った覚えはないのに、左之助は自信たっぷりに聞いてくる。
その様子にたじろいだが、まだ旅立つ予定が立っていないのは事実だったので、とりあえず頷いて見せた。
「よしっ、いいとこ連れてってやるぜ」
ついてきな、と一方的に言い放って、返事も聞かずに踵を返し、すたすたと歩き出す。
「えっ、ちょ、ちょっと」
突然のことに驚き、咄嗟に踏み出せないでいると、背中にある悪一文字が人ごみにまぎれそうになる瞬間に振り返り、さっさと来いよ、とばかりに手招きした。
それをみて、仕方なく後についていく。
「相楽さん、いったいどこに………」
隣を見上げてたずねてみれば、返ってきたのは全く違う答えで。
「左之助って呼んでくれや。敬語もいらねぇ」
鼻歌交じりに歩く左之助は、ずいぶんご機嫌のようだ。
「…………じゃあ、左之助。いったいどこに連れていく気?」
彼の強引さに半ばあきれつつ、は溜め息をついた。
まぁ、今日は特に用事があるわけでもないし。と、諦め気味だ。
そんな様子を知ってか知らずか、左之助はなんでもないとでもいうように答える。
「神谷道場ってとこだよ。そこにさっき言った剣客もいる」
は左之助を見上げたまま目を瞬いた。
「でもその人、流浪人って………」
「おう。今はその道場の食客兼居候」
左之助の話によると、流浪人をやめたわけではなく、いつ出て行くかわからないが、という条件付きでそこに厄介になっているらしい。
「それで、どうして左之助はこんな見ず知らずの人間を、その神谷道場ってところに連れて行こうとしてるんだ」
なんの面識もないのに。
ましてや自分たちだって、ついさっき会ったばっかりなのに。
しかし左之助は、一向に気にした様子もなく、あの不敵な笑みを浮かべた。
「いや、これからメシをたかりに行くつもりなんだがよ、いつも手ぶらってのもなにかと思ってな」
つまり自分は手土産代わりの話のネタか。
その事実に思い至って、は驚きと呆れで目を丸くした。
ずいぶんな言われようだが、左之助の様子をみていると怒る気にもなれない。
強引で乱暴だが、それを許せてしまうだけの人柄があるのだろう。
は少しも悪びれた様子のない左之助をみて、微笑みを浮かべた。
「―――おい」
「ん?」
なんの前触れもなくいきなり左之助が止まったので、は肩越しに振り返って返事をする。
見れば、今まで見た左之助の表情の中で、一番真剣な面持ちをしてこちらをまじまじと見ていた。
なに? と問いかえす。
「おめぇ」
「うん」
「……………女か?」
「は?」
まじめな顔をしてなにを言うかと思えば。
は思わず間の抜けた声をあげた。
「…………左之助は、どう見えるのさ」
少し考えてから、そう問い返してみた。
すると、左之助が頭をひねる。
「刀提げてる時点で男かと思ってたが、姿かたちはどっちともいえねぇ」
袴姿に刀を差すその格好は男のものだが、その容姿と全体から受ける印象はどちらとも取れた。
線の細い、女顔の美少年といえばそうだし、男装し、そう振舞う女だと言われれば頷ける。
「けど、名前は男だしなぁ」
左之助はひとしきり頭をひねってから、で、結局のところはどうなんでぇ、とに詰め寄った。
しかしはそれをするりと避けて、先に歩き出す。
「おい、」
「さぁ、どうだろうね」
左之助の質問にのらりくらりと返す。
「女か」
「左之助が言うならそうなんじゃない?」
「男か」
「そうだね」
その顔はどことなく楽しげで。
人を手土産あつかいした仕返しを、いまここでやっているようだ。
なんともいえない灰色回答を繰り返していると終いには、おしえやがれこのっ、と言って左之助に首根っこを抱えられてしまった。