2 真夜中の訪問者 ― 後編 −
は一瞬、息を詰める。
枕を抱く腕に自然と力が入り、じっとその影を凝視した。
「よっ、と………なんだ、起きとるじゃないか。なんだって返事をせんかった?」
「…………」
なんでと言われても、は答えることができない。
小さな掛け声と共に扉をくぐった真っ黒な影は、部屋の中に入ってもずいぶん背をかがめなければいけなかった。
影本人がとてつもなく大きいこともあるだろうが、原因の半分はこの部屋の小ささだ。
傾斜する天井の一番端では、でさえまっすぐには立てない。
一番高い戸口でも、ちょっと背の高い大人なら窮屈に思うだろう。
「うーむ、ここは狭いな。俺にはちっとばかし狭すぎる」
巨大な影はそう言うと、どすりと音を立てて床にあぐらをかいた。
アパート全体が揺れたような気がした。
階下の人から苦情がこないだろうか。
「おまえさんが、あー……・だな?」
「…………はい」
身体は最初に固まったまま。
それでも顔だけはしっかりあげて、は返事をした。
突然のことに早鐘のようだった心臓は、まだ速いながらも一定の速度を保っている。
これで少しはまともに頭が働くだろうかとは思うけれども、しかし影はそんなことなどまったく気にした様子もなく、ふむと頷くとおもむろに尋ねた。
「暗くて顔がよく見えんな。明かりをつけても構わんかね」
窓から差し込む月明かりの外にいる小山のような真っ黒い影が、何かを探すように身じろぐのが見えた。
それを見たが思い出したようにぽつりと言う。
「あ、いま、電気止められてる………」
先月分の電気代が払えなくて、今月は無電気生活強化月間だ。
ガスか電気か水道かの選択を迫られ、はガスと水道を優先させた。
だから壁にある電気のスイッチを入れても、明かりがつくことはない。
けれど真っ黒な影の反応はの予想とは違っていて。
「デンキ? ああ、マグルの道具かなんかだな。心配せんでも、そんなもんは必要ねぇ」
こともなげにそう言うと、身体の後ろからなにやら傘のようなシルエットのものを取り出して、影はそれを小さく振って見せた。
途端に灯る、オレンジ色の光。
しかもそれは、空中で。
ふわふわと、オレンジ色の炎が漂っている。
「…………」
さすがのもこれには驚いて、口を閉ざしたまま息を呑んだ。
生まれ持った気性か、それともこれまでの人生で培われたものなのか。
それは定かではないのだが、は大抵のことに対してそうそう驚くことがない。
しかしさすがに今回は、驚かないわけにはいかなかった。
暖かな光が灯ったことで、真っ黒な影のヒゲもじゃな顔や、黒いコートを纏った姿がはっきりと見える。
「さてと。これでようやく落ち着いて話ができる」
ヒゲもじゃの大男は、そう言って満足げに頷いた。
手にしていた傘を横に置き、のほうへ向き直る。
「………あの……あなた、誰ですか?」
は男を見上げてたずねた。
すっかりくつろいでいた大男は、こりゃいかんとばかりに頭をかいて。
「まだ名のっとらんかった。俺はルビウス・ハグリッド。ホグワーツの鍵と領地を守る番人だ。ハグリッドと呼んでくれりゃいい」
大男―――ハグリッドは少しぶっきらぼうに、けれどその目は優しく弧を描いてそう名乗った。
ベッドの上で訝しげにしているを尻目に、ハグリッドはまたもやごそごそと動き出す。
そうして黒いコートの懐から、なにやら白い物を取り出して。
「おまえさんに届け物だ。何故だか知らんが、これを受けとっとらんのはおまえさんとあともう一人だけでな。まあ、そのもう一人の方の理由は察しがついとるが………とにかく、これにゃ期限がある。だからこうして俺が、ダンブルドアから直々に使いをおおせつかった次第だ」
ハグリッドはのそりと身体を乗り出して、ベッドの上のにそれを手渡した。
「……………ダンブルドア?」
受け取ったは、訝しげに首を傾げる。
手の中の手紙は、今も机の上に累々と山を築き上げているそれと、まったく同じ物だった。
黄色味を帯びた羊皮紙の封筒に、エメラルド色のインク、紫色の蝋の封印。
わざわざ持ってきてくれた物を見ないでいるのも失礼かと思ったので、はとりあえず開けてみたけれど。
やはり中身も変わらなくて、同じ文面がつらつらと綴られていた。
がそれを確認しているあいだに、ハグリッドは独りでなにやら熱く語りだす。
「アルバス・ダンブルドアは現存する魔法使いの中で、もっとも偉大な方だ。そしてあの方が校長を務めるホグワーツ魔法魔術学校に入学を許されるなんざ、この上なく光栄なことだ。おまえさんもそう思うだろ? なにせあの方は………」
「ホグワーツ―――なんですって?」
はハグリッドの言葉の一つを聞きとがめ、おざなりに目を走らせていた紙面から思わず顔をあげた。
僅かに眉間に皺を寄せて、訝しげな顔をしている。
たった今自分の耳で聞いたことをまるで信用していないような、そんな表情。確実に聴覚を疑っていた。
ハグリッドは、そんなに少し驚いた様子で。
「ホグワーツ魔法魔術学校。その手紙にも書いとるだろう。おまえさん、本当に受けとっとらんかったのか?」
再び繰り返された言葉によって、は先ほど聞いたものが幻聴ではなかったことを知った。
けれど自分に対する疑いが晴れたのも束の間、今度は大きな混乱が襲ってくる。
魔法? 魔術?
実在するはずのないそれらの、しかも学校?
はちらりと小さな机の上にある小山に目をやった。
すると、ハグリッドもその視線を追って、そちらへと目を向ける。
「なんだ、ちゃんと届いとるじゃねぇか。なんだって返事を返さねぇ? 期限は七月三一日だぞ」
ハグリッドの言うように、手紙の終わりに"七月三一日必着でふくろう便にての………"と記されていた。
しかし、疑問は増える一方だ。
ふくろう便だなんて、生まれてこのかた一度だって聞いたことがない。
聞いたことはないがしかし、ここ数日というもの、毎日毎日何度も何度も目にしていたふくろうたちを、は思い出さずにはいられなかった。
手紙を運ぶふくろう―――まさしくふくろう便だ。
「おっといかん、忘れるところだった。お前さんに手紙を渡したらふくろう便を飛ばすよう、ダンブルドアに言われとったんだ」
「は? あの、ちょっと待って」
ごわごわしたコートのポケットから、よれよれの白い物体を取り出したハグリッドを見て、は制止の声をあげた。
妙に落ち着いたのその声にぴたりと動きを止めたハグリッドの手には、信じられないことだが一羽のふくろうが握られている。よれよれの白い物体はが予感したとおりふくろうだった。
ハグリッドは不思議そうな顔で一体どうしたとに問うが、はどうしたどころではない。
「そのふくろう………便、この手紙に対する返事なんですね? それなら私、困ります」
はベッドの上に座っていて、相手のハグリッドは床の上にあぐらをかいているというのに、それでも自分よりも目線の高いハグリッドをまっすぐに見上げて、はきっぱりと言った。
色々驚いていたし、わからないことばかりだけれど、とにかくこれだけははっきりさせておかなくてはと。
ハグリッドは驚いた顔で首を傾げる。
「困るって何がだ?」
「私、そのホグワーツとかいう所には行きませんから」
だから返事をするにしても、お断りの内容にしなければいけないのだとは言う。
それに、ハグリッドはますます驚いて。
「お前さん、自分が何を言っとるか分かっとるか? ホグワーツに行かないだって? なんだってそんなことになる」
信じられない、と言外に告げる。
けれどはしれっとした顔をして、やはりまっすぐにハグリッドを見上げた。
「そこは学校でしょう? だから」
そこがいったい何を教えるところなのかまったくわからない………というより信じられないけれど、それを抜きにしてもこの手紙にOKの返事を出すわけにはいかない理由がにはあった。
そこがどんな学校であったにしろ、行けない理由が。
「だから、どうして………」
「お金がないもの」
納得できない様子のハグリッドに、はあっさりと言った。
とても簡潔で、明確な理由を。
「学校にはお金がないと行けないでしょう? 学費なんか払ってる余裕はないので。日々の生活で手一杯」
あんだすたーん? とばかりに首を傾げて見せる。
ハグリッドはしばらくぽかんとしてそれを見ていた。
ようやく十一歳になろうという娘が、なんて現実的な………。
しかし、はっとしたように首を振る。
「親はどうした。話しちゃいねぇのか」
ハグリッドのその言葉に、は密かに、この人は一体なにを見ているのだろうかと思った。
こんな狭いアパートの屋根裏部屋で、家族が何人も住めるとでも思うのか。
がここで一人暮らしをしていることは一目瞭然だ。
しかしは無表情なままで言う。
「さあ、どうでしょう。言えばだしてくれなくもないだろうけど、でもあの人たちに頼むのはちょっと………」
できることなら遠慮したいと思うのだ。
というより今さら学校うんぬんなんて、どんな顔して言えと言うのか。
「お前さんの家はそんなに生活に困っとるのか」
「はあ、まあ」
ハグリッドの誤解をあえて訂正せず、は曖昧に答えた。
とにかく、だから学校へは行けないのだと言う。
しかしハグリッドはそれを聞いても、何か考え込むように腕を組んでふーむと唸りはじめた。
はまだ諦めてくれないのだろうかとその様子を窺う。
どれほど言われても、ないものはないのだから仕方がない。
明日も朝から仕事があるのだし、できれば早く帰ってもらいたいのだけれど、ハグリッドはそんなの思いなどどこ吹く風で、ただただ考え込んでいる。
時計を見ると、もう深夜の一時を指そうとしていた。
と、その時。
ふーむふーむと唸っていたハグリッドが、突然に動き出した。
そして先ほど取り出していたふくろうに、なにやら走り書きした紙を持たせる。
「俺がお前さんについてダンブルドアから言付かってきたのは、必ずお前さんをホグワーツへ向かわせるようにということだけだ。あー……、さっき言っとったその事情については、入学してからダンブルドアから話があるだろう。とにかくお前さんの入学はもう決まっとるんだよ、。お前さんはホグワーツへ行かにゃならん」
そう言ってふくろうを放すハグリッドは、それを見送ってからに向き直った。
空中に浮いたままのオレンジ色の炎が、その姿を照らし出している。
たっぷりとした髪とヒゲに覆われてその顔はよく見えなかったが、隙間から覗く二つの瞳はどことなく優しげだとは思った。
「お前さんは魔女だ。間違いねぇ。その証拠に、昔からお前さんの周りでは不思議なことが起こっとったはずだ」
「はぁ………」
思い当たる節がないではなかったが、はどうでもいいような返事をする。
そんないきなり魔女とか言われても………というのが正直な心境だった。
しかしハグリッドはそんなこととは露知らず。
「とにかく揃えられるだけの学用品を揃えにゃならんな。まずはダイアゴン横丁で買い物なんだが、おれはこの後ちと用事が入っとってな。さっきも言ったが、お前さんのほかにもう一人、手紙を受け取っとらんのがいるんだよ」
そいつにも届けにゃならんと言って、ハグリッドは大きな身体をのそりと動かした。
立ち上がると、天井に頭をぶつけそうになる。
「それが済んだらまたここに戻ってくるから待っとってくれ。くれぐれも学用品リストを捨てちまうんじゃねぇぞ」
あまり乗り気ではないの様子を察してか、ハグリッドはそう釘を刺す。
もう捨て切れないほどに同じ内容の手紙がの手元にはあったのだけれど、それでもハグリッドは心配だったのだろう。
巨体を小さく屈めて何とか部屋の扉をくぐると、再び振り返ってベッドの上で座り込んでいるを見た。
「たぶん明後日にはそのもう一人も連れて戻ってくる。楽しみに待っとってくれ」
ひげの奥でにっこり笑ったハグリッドは、いい夢をな、と告げるとそのまま扉を閉ざして出て行ってしまった。
後に残されたは、いつのまにかなくなっていた宙に浮かぶ炎のせいで、また月明かりだけになった暗い部屋をぼんやりと眺める。
まるでさっきまでの出来事が夢だったのではないかと思うほど、部屋の中も窓の外もひっそりと夜の静けさに満ちていて。
「………………寝よう」
しばらくぼうっとしていただったが、このままでは埒があかないということに気が付くと、そのまま何事もなかったかのようにベッドの中に潜り込んだ。
夢なら夢で、もう一度寝て起きたら覚めているだろうと。
あんなことがあった直後にも関わらず、すぐさま襲ってきた睡魔に身を任せたのだけれど。
次の日の朝、枕もとにある封の開いた手紙の存在が、昨夜の出来事が夢ではなかったことをに知らせていた。
反応の薄い我が家のヒロインさん。