2 真夜中の訪問者 ― 前編 −
最後に会ったのは、もう何年も前の話。
今では顔も思い出せないぐらいの、親がいる―――。
は弱々しくぼやけた光の灯るアパートの階段を上り、自分の部屋の薄汚れた扉を押し開いて中に入った。
ぎいぃ……という扉の軋む音だけが、明かりの灯らない室内へとを迎え入れてくれる。
窓の外には、ロンドンの淀んだ空にかろうじて浮かぶいくつかの星と、晧々とやわらかな光を放つ月。
は仕事に疲れた身体をベッドの上へ投げ出し、うつ伏せのまま顔を横にしてぼんやりと枕もとの時計を見た。
親がいる、と。
過去形でないのは二人がちゃんと生きているからで。
いまでもロンドンの郊外に小さな家を借りて、元気に仲睦まじく生活しているはずだ。
父と、母と、そして今年七つになる妹と三人で。
がぼんやりと眺めるその先で、時計の秒針は軽い音をたてて淀みなく進んでいく。
自分の他に誰もいない室内ではやたらと耳につくその音も、今のには届いていなかった。
身体は疲れているのだからこのまま眠ることもできるのに、なぜだか今日は瞼が重くならない。
は妹が生まれたときのことを、とてもよく覚えていた。
母が妊娠したと知らされた時の、父のあの喜びよう。
仕事もそっちのけで家にすっ飛んで帰り、出迎えた母をこれでもかというほど大事そうに抱きしめた。
満面の笑みで、よくやったと囁いて。
それに軽く頬を染める母。
日に日に大きくなっていく母のお腹を見ては、父はまるで壊れ物でも扱うかのようにその身体をいたわった。
大切に、大切に。
妻と生まれてくる子供に、もしものことがないようにと。
あんまり心配するものだから、当の母でさえ苦笑を浮かべることもしばしばだった。
そんな父が、大切な身重の妻からことさら注意深く遠ざけようとしたのは、他の誰でもない、当時三歳になる娘ので。
寝るときも、起きるときも。食事のときでさえ、父は大切な大切な妻とまだ見ぬ我が子に、実の娘であるを近づけようとはしなかった。
自分が仕事に出るときは、近くに住む知り合いのところにを預けた。
その時の、父の様子を覚えている。
まるで物でも預けていくかのように、一度もこちらを見はしなかった。
はいつも預けられた家の窓から、仕事に向かう父の後ろ姿を見送っていたのだ。
そして、そうこうするうちに、ついに生まれてきたのは女の子で。
ふくよかで色白で、明るいピンク色の頬をしたその赤ん坊は、とても可愛かった。
嬉しそうな父、幸せそうな母、無邪気に眠る妹。
も初めてできた兄弟が生まれてくるのを、心待ちにしていたのだけれど。
病院から帰ってきた両親は、決してを生まれた子に近づけさせようとはしなかった。
以前にも増して用心深く、を遠ざけて。
けれどは、初めてできた妹がかわいくて仕方がなかった。
もう少し近くで顔を見たい。
少しでも傍にいたい。
そう思ったは、両親の目を盗みベビーベッドで眠る妹の顔を眺めにいくのが日課になった。それだけでも充分に満足だった。
そんなある時。
そののささやかな幸せが、突然崩れてしまう。
たまたまがいつものように、妹のもとへこっそりと会いに行った時だった。
その時偶然起きてしまった出来事がきっかけで、はこのおんぼろアパートの屋根裏の部屋を与えられたのだ。
家から遠く離れた、ロンドンの下町に。
四歳の誕生日を目の前にした日のことだった。
「…………もうすぐ」
ポツリと呟いてみる。
窓から差し込む月明かりに、照らし出された時計を見て。
あと一週間で、十一回目の誕生日だ。
ここに来てから八回目。
その間、一度だってあの人たちから何かが届いたためしはない。
電話すらかかってはこない。
はすぐ傍の枕をたぐり寄せて、横向けた頭の下に敷いた。
そしてそのまま目をつむる。
誕生日が嬉しかったのなんて、何も知らなかった頃の話。
でもそれも、今思い返せば上辺だけの、なんて虚しいものだったろう。
飾りつけと、料理と、プレゼントと。
きらびやかなそれらに覆い隠されていたのは、あの二人が自分を見る眼差しの本当の意味。
恐ろしいものでも見るかのような、そんな蔑んだ瞳。
二人は自分たちの娘が普通でないことを、ひどく疎んじていた。
少し大きくなって、いろんなことがわかるようになって。
そうして気づいてしまえば、後はとても楽だった。
一度も自分からは会いに来てくれない両親を、訝しんで悲しむこともない。
誕生日に一言の祝いもないことを、惨めに思って泣くこともない。
住む場所だけは与えられていることを、幸運に思うようになった。
食費や光熱費を稼ぐのは大変だったけれど、仕事が見つかればそれだけでついていると思うようになった。
訪ねていけば、援助ぐらいはしてくれるだろう。
けれど今となっては、会いたくないのはこちらも同じで。
だからはここ数年、仕事がなんとか見つかるようになってからは、一度も家族と会ってはいない。
もちろん、それに不満はないのだけれど。
それでもこうして、おぼろげにしか思い出せない彼らを思い出すのは、やはり誕生日が近いせいかもしれないとは思った。
疲れて帰ってきて、酔っ払いの声も犬の遠吠えも聞こえないこんな夜には、ついついいらないことを思い出してしまう。
けれどそれも毎年のことで。
明日になればすっかり忘れてしまえることもわかっていた。
もう寝よう。
は身体を丸めて小さくなる。
まだ少し早いけれど、夕食に食べるものもないことだし。
眠ってしまえばお腹もすかないだろうから。
だからもう、寝てしまおう。
上にかけるはずのシーツの上で、が枕を抱え込んだ、その時―――。
ドンドンドン!
「―――っ!?」
あまりのことに驚いたは、ベッドの上でがばりと飛び起きる。
屋根裏部屋の粗末な扉が、突然もの凄い音を立てて跳ねていた。
すぐそこまで迫っていた眠気は消え失せ、早鐘のように鳴る心臓を抱えてベッドの上で扉を凝視したまま固まった。
一体こんな夜中に、誰が来たというのだろう。
いや、そもそも訪問者がいるということ自体、おかしな話で。
だってもうここ何年も、こうして尋ねてくる人なんていなかったのだから。
それなのに、薄い扉の向こうには、確かに何かの気配がする。
は咄嗟に抱えた枕を強く握り締め、ぴたりとベッドのヘッド部分に背をつけた。
向こう側にある得体の知れない気配は、一向に消えようとしない。
ドンドンドン!
しばらくの沈黙の後、再び扉が大きく跳ねる。
このままでは、あの薄くて古い木の扉は壊れてしまいそうだ。
そうなったら、どう言って大家さんに謝ろう。
の頭は思ったよりも冷静なようだった。
かなり驚き、若干怯えてもいたけれど、息ができないほど焦ってはいないらしい。
だからといってどうすることもできないのだが、それでもパニックになるよりいくらかはマシだと思った。
そうこうしている内に、また扉が叩かれる。
ドンドンドン!
部屋そのものさえ揺らしているのかもしれない三度目のその音は、しかし今度は、さっきまでとは違って別の音と一緒に響いてきた。
「おーい、……えー……・! 寝ちまっとるんかー?」
突然に自分の名を呼ばれて、は目をぱちくりさせる。
太くて低くて少しだけひび割れたそれは、単なる音ではなく声だった。
とはいっても、にはとんと覚えのない声で。
返事をしようかどうしようか迷っていると、扉の向こうの声の主が、しかたねぇ、と呟くのが聞こえた。
もしかして、あきらめて帰るのだろうか。
は一瞬、そんな期待を抱いたけれど。
「ちょいと乱暴になるが、許してくれや」
そう、誰に対する謝罪なのかわからない言葉が聞こえたかと思うと、それまで何度も跳ね、軋んでいた薄い扉が、ものすごい勢いでこちら側へと開かれたのだ。
ガバンっ! という豪快な音の後ろに、バキンとかいう不吉なものまで聞こえてきたが、当のはそれどころではない。
扉が開かれたはずなのに、廊下に灯されているはずの照明の光が入ってこない。
いくら古くて弱々しいとは言っても、この部屋は月明かり以外真っ暗なのだから、差し込んでくればわかるはずなのに。
それなのに開かれた扉の向こうも真っ暗で。
否。
真っ暗なのではなくて、真っ黒な影が入り口を塞いでいたのだ―――。
続けてUPしたのに前・後編。
何かが色々間違っている気もしますが、気にしないでください。
ヒロインちゃんは、結構な苦労人。