9 不思議
最近ふと気づくと聞こえてくる。
静かな旋律、軽やかな調べ。
奏でている人はわかっていて、ついついその姿を探してしまう。
普通科の制服。
やたら図体のでかい男のものじゃなくて。
自分と同じ赤いタイをした、普通科の。
「あ、あの、月森君………これっ、読んでください!」
「………………」
二、三人で徒党を組んでいきなり来たと思ったら、手紙を押し付けて駆け去っていくその姿にうんざりする。
彼女はこんなことをしない。
きっとしない。
なぜなら彼女は俺を嫌っているはずだから。
第一セレクションのとき、俺は彼女に言った。
―――君が同じ舞台に上がることは不愉快だ。
本心だった。
普通科の君が、素人の君が、俺たちと同じ舞台に?
音楽をなめないでくれ。
いつか聞いたその歌声は、とてもじゃないが認められなくて。
これなら声楽専攻の一年生のほうがずっとましだと思った。
しかも滅多に聞こえてこない。
練習しているのか?
どうせ軽く考えているんだろう。
真剣に音楽をするつもりなんかないんだ。
言い返さないのがその証拠だと思った。
絡んでくる音楽科の生徒に。
言い返せばいい。その覚悟があるのなら。
だけど彼女は何も言わない。
ただ俯いて、手にした鞄を握り締めて。
虫唾が走ったのは、無意味に人を傷つけようとする彼女たちと、黙ったままでいる彼女に対して。
聴かせてもらおう。君の音楽を。
君の覚悟を。
それがないのなら、すぐにここから去るべきだ。
俺は君を認められない。
けれど、会場を包んだのは澄んだ歌声。
祈りのような、美しい歌声。
驚いた。
こんな歌い方ができるとは思ってもみなかったから。
そのセレクションの結果は4位。
続く第二セレクションでは入賞を果たした。
滅多に聞こえてこなかった歌声も、最近ではよく響いていて。
俺はついついその主を探してしまう。
普通科の制服。
声をかけるわけではないけれど。
ただ、なんとなく。
「あ、月森君!」
森の広場の向こうから手を振られて、咄嗟にどうすればいいのかわからなかった。
駆け寄ってくる彼女。
「今日はここで練習?」
にこやかな笑み。
なぜだ。
俺は君を傷つけたのに。
「月森君?」
小首を傾げられて、はっとする。
「あ、ああ。そうしようと思ったんだが…………」
「よかったら聴かせてもらってもいい?」
無邪気に微笑んで。
なぜ、君はそんなにも自然に話しかけてくるんだ?
「ああ、かまわないが………君は練習しなくていいのか?」
俺の問いにきょとんとして。
「なんかね、先生がいろんな人の音楽を聴けっていうから。それも大事な練習だからって」
先生。金澤先生のことだろう。
あのやる気のないことで有名だった人が、最近になって変わってきた。
彼女の指導をするようになってからだ。
俺は、そうか、と答えてヴァイオリンを構える。
音楽に集中する。
感覚を研ぎ澄ませて。
彼女のことは、今は忘れよう。
不可解な、彼女の行動は。
悩むことはない。これが、彼女なんだ。
あの歌のように、純粋で、まっすぐで。
「ヴァイオリンて、すごいねぇ…………」
一曲を弾き終えると、彼女はため息をついて呟いた。
「………そうだろうか?」
「うん。すごい」
彼女は繰り返す。それが少し照れくさくて。
「なんかねぇ、上手く言えないんだけど、音が、なんていうの? 溶ける感じ? でも時々すごくはっきりしたりして………」
必死で言葉を探そうとする。もどかしげに頭をひねりながら。
「わたし、月森君のヴァイオリン、好きだよ」
「………………」
不意にそんなことを言われて、ヴァイオリンを片付けていた手が固まった。
「すごく、きれい。セレクションで聴いたとき、すごいびっくりした。なんか、オーラがあるよね」
「……………」
そんな賛辞の言葉は、嫌いなはずなのに。
そんなありきたりの言葉は、不愉快なだけだと思っていたのに。
「………ありがとう」
自然に言葉が漏れた。
それににっこりと微笑む彼女。
彼女は俺を嫌っていない。
そのことが、なぜか少し嬉しかった。