8 夕暮れに






 金澤は上機嫌だった。
 会場の後片付けを手早く済ませ、いそいそと屋上へ向かう。
 一服するためだ。
 今はもう下校時刻も近いから、生徒は誰もいないだろう。


 柄にもなく鼻歌なんぞ歌いながら階段を上る。

 曲は『アヴェ・マリア』

 今日、あいつが歌った曲。


 全員の演奏が終わった最後の舞台の上で、あいつがスポットライトに照らされることはなかった。
 スネアドラムの響きと、舞い散る紙ふぶき。
 予想していた結果だ。
 いきなり入賞なんてそりゃ無理だろ。
 あいつが本格的に練習をはじめてまだ日が浅い。
 レッスンを重ねるたびにめきめき腕を上げていて、それには目を見張るものがあるが、やはり経験の差は否めないはずだ。
 だが、驚いたのはその後。
 すぐさま張り出された全体の結果発表。








 4位  『アヴェ・マリア』









 4位。
 予想外の結果だった。
 素人が音楽科に混じって、4位。

 控え室であいつを見たときは、正直どうなることかと思った。
 ガチガチに緊張していて。しかもどこかおかしくて。
 けどやっぱり取り越し苦労だったんだ。

 本番のあいつは、自然体だった。
 舞台に立ってすぐの時は様子がおかしかったが、それもすぐに消えた。

 会場に響き渡る澄んだ歌声。まるで祈りのような。
 ファータの選んだ歌声が、会場全体を包み込んだ。
 限りなくやさしく。たおやかに。

 あれだけ実力が出せれば充分だ。充分すぎる。
 本番で実力を発揮するのはひどく難しい。多くの人間が、その半分も出せないうちに終わってしまう。

 立派なもんだ。
 次のレッスンの時にでも、誉めてやるかな。

 そんなことを考えながら、金澤は屋上のドアを押し開いた。
 強さのわりに熱を伴わない夕日に目を細める。
 全体がオレンジ色に染まっていた。


「……………なにやってんだ、おまえさん」


 夕日の中に人影を見つけて、金澤は思わず呟いていた。


「先生…………」


 人影が振り返る。
 きらびやかな舞台衣装を脱ぎ、普通科の制服に着替えたがそこにいた。足元には鞄が置かれていて、帰り支度は整っているようだ。


「先生こそ、何しに来たんですか?」


 隣に立って、屋上の柵に寄りかかる俺に微笑む。


「んー、一服しようと思ったんだがなぁ」

「しないんですか?」


 笑ったまま小首を傾げられて、俺は夕日のほうへ目を向けた。
 取り出した煙草を指でもてあそぶ。


「いやー、将来有望な生徒の喉を、教師の俺が痛めさせるわけにはいかんだろ」


 ちょっとおどけた口調で。


「なんかそれ、先生らしくないですよ?」

「あ、ひでぇな。俺だってたまには教師らしいことするんだぞ」


 あはは、とが笑う。
 火をつけないままの煙草を口にくわえた。なんとなく、口が寂しかったから。スモーカー生活が身についてる証拠。
 そのまま軽い口調で言った。


「そうそう、今日はおめでとさん。4位だってな。立派な成績だ」


 柵に両肘をついて、夕日に目を細める。


「………………そうですか?」


 はこちらを向いているが、その表情はわからない。


「だろ? 音楽科に混じって普通科のおまえさんが4位だぜ?」

「………でも、土浦君は2位でしたよ」


 その言葉に苦笑する。
 なんだ、気にしてるのか?


「あいつは経験者だろ。昔、なんかのコンクールで入賞してるらしいしな」


 その点、おまえさんは初心者で初舞台。立派だろ〜。
 くわえた煙草を上下に動かした。
 もうずいぶん人通りが少なくなった校門前を見下ろす。もうすぐ下校時刻の鐘が鳴る。

 は、そうですか〜? と笑いを含んだ声音で答えた。


「いい演奏だったぞ。正直、おまえさんがあそこまで歌えるとは思ってなかったからなー。控え室で見たときなんか、こりゃダメだって思ったし」

「……………」


 柵を握り締めるの左手がかすかに動いたことに、金澤は気づかない。
 くわえた煙草を動かして。


「けど本番であの演奏。おまえさん、大物になるぞ〜?」


 金澤は笑う。
 も笑おうとして、でも、上手くいかない。
 笑顔が、張り付いたように動かなかった。


「そういや、歌い始めの時なんか変だったな」


 が舞台に立ったときのことを不意に思い出して、金澤は首をかしげた。
 前奏が始まって歌いだすタイミングのところで、伴奏がとまったのだ。少しの沈黙の後、また始めから繰り返される伴奏。また同じところでとまる。会場全体が僅かにざわめきだした時、三度目の前奏でやっとその歌声は響いた。
 ほっと胸をなでおろしたのをおぼえている。


「ありゃ、どうしたん…………」


 首だけで隣を見やって、金澤は絶句した。
 口から煙草が零れ落ちる。


「――っな、ど、どうした、おまえさん! なに泣いてるんだ!?」

「……………え?」


 不思議そうに呟いたが顔に手をやる。
 笑ったままの表情を濡らす暖かい液体。
 一瞬、それがなんなのか理解できなかった。


「あ、れ? なに………これ」


 あわてて手の甲でそれをぬぐう。しかし涙は止めどなく溢れてきて。
 笑顔だった顔が、くしゃりと歪む。


「お、おい、。どうしたんだよ。俺、おまえさんになんか悪いこと言ったか?」


 先生が戸惑っているのがわかる。


「―――っちが………わた、し……」


 なんとか弁解しようとしたけど、しゃくりあげるようになってしまって上手く喋れなかった。
 涙が、とまらない。


「………?」

「わたし…………歌えなかっ、た……」


 何とか搾り出した言葉に、金澤は首をかしげる。


「? なに言ってるんだ? おまえさんはちゃんと歌ってたじゃないか」


 そうだろ? と金澤はやさしく問いかけた。
 しかしは目元を手で隠したまま首を横に振る。


「どうし…………」

「リリ、が―――」


 涙に消え入りそうな声でが言った。


「リリ?」


 意外な名前を聞いて、ますます首をかしげる金澤。
 なぜこの場でリリの名前が………。
 の肩は上下に激しく動いている。必死で呼吸を整えようとしているのだろう。その姿が痛々しくて、金澤はそっと肩に手を触れた。


「……リリ、が、助けてくれたんです。舞台の上で」


 俯いたまま涙声でが語る。
 金澤は黙ってそれを聞いてやった。


「わたし、ステージに上がったとき、歌えなくて。………上手く、上手く歌わなきゃって、そればっかり考えたら、どうしたらいいのか、わからなくなって…………」





 舞台の上で立ち尽くすの目の前に、金色の粉を振り撒くリリが突然現れた。


『なにをしているのだ! はやく歌うのだ!』


 小さな腕を振り上げて言うリリに、はかすかに首をふった。
 無理だよ、わたし、歌えない………。
 言葉には出さなかったが、リリにはわかったようで。


『仕方ないのだ、今回だけなのだ。おまえが歌わないと、コンクールが始まらない』


 しかめ面でそう言うと、リリはつまようじのような銀の杖を振った。


『思い出すのだ、練習の時の風景を。なにも、特別なことなんてないのだ―――』


 瞬間、目の前に広がる練習室の景色。
 遠くに運動部のかけ声が聞こえていて。学内のそこここで奏でられる他の楽器の音が響いていて。
 頭の中のいろんなものが溶けて消えてしまう。
 ただピアノの伴奏だけが身体を満たし、自然と歌声が流れ出ていた。





 一度は落ち着いたかと思ったから、また大粒の涙が溢れ出す。
 肩が小刻みに震えていた。


「――っダメなんです、ダメなんです、こんなっ………リリに、助けてもらって………こんなの、最低っ……」

「…………


 金澤はの肩に手を置いたまま困惑していた。
 が泣いている理由はわかっている。
 また大きくしゃくりあげた。


「わたしっ、卑怯です………冬海ちゃんも、苦手だって言ってたのに。それでも、一人で頑張ってたのに………わたしだけ――っ」


 苛立ちと、罪悪感。
 止めどなくあふれる涙は全て、自分自身を責めるもの。



 そんなこと、する必要なんてないのに。
 おまえさんは、じゅうぶん頑張ってたさ。



「………、落ち着きなさい。誰かの助けを借りるのは、なにも悪いことじゃないさ」


 両手で肩を支えてやる。
 少しでも落ち着くように、やさしく語りかける。


「みんな何かしらの力を借りてやってるんだ。月森だって、冬海だって。もちろん、柚木や、火原も。音楽科の人間はみんな、俺たち教師の授業受けてるんだぞ? おまえさんが一人だけでやらなきゃならん理由なんてないさ」


 だろ? と笑ってみせる。
 驚いた顔で見上げる


「でも、だって………きっとわたしの力じゃない。あれは、わたしの力じゃないのに………」


 赤く染まる夕日の中でもそれとわかるほど真っ赤に腫らした目で、は金澤を見つめる。
 どうしてそんなことを言うのかと問い掛けるように。


「おまえさん、本気でそんなこと思ってるのか?」

「だって…………」


 金澤にまっすぐ見下ろされて、は視線をそらした。
 自分は場違いなのに。
 あの舞台に立てるだけの実力なんてないのに。
 必死に練習したけど、それでもまだまだ足りなくて。自分より上手い人はたくさんいて。
 今朝の彼女たちの言い分はもっともだと思った。
 自分一人いなくても、コンクールには何の問題もない。
 そんな自分が4位だなんて、きっと、リリが何かしたおかげなんだと思った。わたしにそんな力があるわけない。
 ところがこちらを見下ろす金澤が、不意にの肩に手をかけたまま俯いた。目の前に金澤のつむじが来て、は驚く。


「………せ、先生?」


 金澤の肩が揺れていた。いや、身体が揺れていた。規則的にスタッカートをきかせて。
 声を殺しているが、笑っているのだとすぐにわかった。


「………なんなんですか?」


 少し不機嫌に呟く
 こっちはこんなに真剣なのに。
 なにを笑っているのか、この人は。
 しかし金澤はなおも笑い続ける。


「もう! いいかげんにしてください! 何でそんなに笑って………」

「いや、すまんすまん。つい、な」


 金澤はやっとのことで上体を起こしたが、まだ笑いの余韻は消えていない。は、なんですか、ついって、とむくれている。
 金澤は鉄の柵に寄りかかって言った。


「おまえさん、誰になにを言われたか知らんが、もうちょっと自信持ってもいいと思うぞ」

「―――自信?」


 初めて聞く単語のように繰り返すを見て、金澤はまた笑いだしそうになった。それをかみ殺して、そうだ、と頷いてみせる。


「おまえさん、上手くなってるよ。自覚はないと思うがな。聞くやつが聞けば、すぐにわかる」


 新しく煙草を取り出し火をつけようとして、すぐに思い直した。口にくわえたまま、白衣のポケットに手を突っ込む。


「上達も早いし勘もいい。あとは経験と度胸」


 こればっかりは時間がないとなぁ、と空を仰ぎ見る。
 オレンジ一色だったところに、紫が混ざろうとしていた。


「音楽科の中には、普通科で素人のおまえさんに色々思うところのあるやつもいるんだろうが、言いたいやつには言わせとけばいいさ。努力じゃどうにもならないことがあるし、おまえさんはじゅうぶん頑張ってる」


 下校時刻はもう過ぎていた。
 門は閉まっていないが、人影がどこにも見当たらない。

 こういうの、苦手だったはずなんだけどなぁ。

 金澤は僅かに苦笑する。
 悩む生徒、相談に乗る教師。
 俺にいちばん似合わないシチュエーション。
 しかもその生徒に泣かれようもんならあんた、大厄日だぜ?
 その上煙草も吸えない、他に誰もいないから助けも求められない。
 最悪なはずなのにな。
 今日はなぜか、そうでもない。


「………先生」

「ん?」


 すっかり落ち着いた様子のがまっすぐ俺を見ている。
 その呼びかけに首だけで答える。


「ありがとう」

「…………おお」


 不意に向けられた笑顔に一瞬動揺して。
 それを悟られないようにまた空を見上げた。


 悪くないなんて思ってしまうのは、きっと年のせいだな。
 俺もついに焼きが回ったか?



「………先生?」

「なんだぁ」


 今度は顔を向けずに答える。なんとなく。
 しばらくの沈黙あと、は口を開いた。


「わたし、頑張ります」

「おう、頑張ってくれ」


 その答えに満足したように、へへ、と笑う声が聞こえた。
 足元の鞄を手にして屋上の出口へ向かう。


「あー、ー」

「はい?」


 空を見上げたままだったが、こちらを振り返るのが気配でわかった。


「なんかあったら俺のとこに来いよー? 話ぐらいなら聞いてやるからな」

「………………………」


 沈黙が続き、俺は不審に思って視線を出口に向けた。
 がこちらを凝視している。


「………なんだよ」


 その呟きに答えたは、心底意外だという顔をしていた。


「…………先生が、先生じゃないみたい。いっつもめんどくさいって言うのに」


 確かにそうだけども。この場でそれを言うか? ふつう。


「おまえさんなー、ここは感動して礼を言うところだろうが」


 ため息をつきながらのぼやきに、は声を立てて笑って見せた。


「あははは、日ごろの行いが悪いからですよ」

「そういうこと言うなら前言撤回」


 ふい、と横を向く。


「ああっ、うそです、うそです! うれしいです、ありがとうございます」

「最初からそう言いなさい」


 慌てるに、にやりと笑うと、気をつけて帰れよと手を振った。
 はーい、と答えて扉を開ける。


「先生?」

「なんだ、まだなんかあるのか」


 閉まりかけた扉から顔だけのぞかせて、がこちらを見る。





「―――ありがとう」





 それだけ言って、返事を待たずに出て行った。


「……………………」


 残された俺は、また空を見上げる。
 紫の割合が多くなり、その後ろから紺色が迫っていた。


「ありがとう、ねぇ………」


 そんなありふれた言葉がやけに耳に残るのは、きっとこの黄昏のせい。

 なんて、臭いこと考えてる時点で、もうオヤジだよなぁ………。













 今日は、学内音楽コンクール第一セレクションが終わった日――――。








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