7 立派な楽屋
黒やら白やらほくろつきやらの、お玉じゃくしの群集を目で追いかける。
頭の中で正確につむがれるメロディー。リズム。
講堂の地下にある控え室は閑散としている。
なぜってここは女子用の控え室だからで。コンクールに参加する女子はわたしと冬海ちゃんの二人だけなわけで。
その冬海ちゃんも、クラリネットを触ってくるといって、さっき出て行ってしまった。
だからここにはわたし一人。
コンクールの準備をするざわめきが遠くに感じられる以外は、とても静かだ。
大丈夫。ちゃんと歌いこんできた。
楽譜をひざの上において息をつく。
なれないイタリア語で、単語の意味もはっきりとはわかってないけど、歌詞だって忘れてない。
きっと大丈夫。
………だけどもう一度。もう一度だけ読み返しておこう。
控え室の鏡の前に座り、メイクもそこそこに楽譜を食い入るように見つめる。
のばしの拍数は? 休符は? ここの音程は?
気を抜けば割り込んでくる今朝の出来事を、閉め出そうとする。
関係ない。
わたしには、関係ない。
あんな人たちに言われなくたって、自覚があるもん。
初心者だって。
他の人たちと釣り合うレベルじゃないって。
月森君の言い分だってもっともだ。
わたしが同じ立場でも、きっとそう思うだろう。
だから、何も変わらない。
―――変わらない。
ただひたすらに楽譜を追いかける。
何度も、何度も。
もう一度、もう一度だけと。
熱中しすぎていたのだろうか。
もう何度目になるかわからない繰り返しをしようとしたとき、不意に耳元で声がした。
「おまえさん、眉間に皺がよってるぞー」
「―――っ、先生!」
とび上がり、手にしていた楽譜を落としてしまう。
「あああ………」
おたおたと拾い集めるにため息をついて。
「なにやってんだ……ほれ」
金澤は拾い上げた楽譜の一部を渡してやった。
大丈夫なのかね、いまからこんな調子で。
「す、すいません………」
受け取るの手が小刻みに震えていることに気づいて、金澤はまたため息を漏らす。
だめだな、こりゃ。
「おまえさんな、緊張するなとはいわんが、もうちょっと肩の力を抜けよ」
本番までにまいっちまうぜ?
リラックスさせようといつもの軽い調子で言ってみた。
しかし、
「――だ、大丈夫ですよ? 平気です」
―――どこがだよ。
浮かべた笑顔も固まりきって、貼り付けたみたいになっている。
彫刻かおまえは、と言いたい。
「わたし、こう見えても本番に強いんですよねぇ。あははは……」
無理してるのが見え見えだ。もろバレだ。いっそ悲しいくらいだ。
ふと、が発する乾いた笑いの中に違和感をおぼえた。
なんだ?
「………おまえさん、どうかしたのか?」
「なにがですか?」
小首をかしげて見上げてくる。
ぱっと見は普通に見える。
緊張してるのだって、この場合なら普通だろう。なんたって初舞台なんだから。
だけど、なにか………。
「いや、なにがってわけじゃないんだが」
もごもごと言葉を濁してしまう。
なにがといわれてもなぁ…………。
「変な先生」
そういった笑顔にいつものやわらかさが戻っていて、俺はほっとした。
俺の取り越し苦労だったか?
それならいい。
緊張するのは悪いことじゃない。神経が集中している証拠だ。
「ま、気楽にいけよ。いつものおまえさんを出せばいい」
失敗したって、そん時はそん時だ。
ははは、と笑って時計に目をやる。
「おっと、時間だな。んじゃ、頑張れよ。俺は客席で聴いてるからな」
白衣のポケットに手を突っ込んで、ほてほてと出口に向かう。
「おお、冬海。おまえさんも頑張れよー」
入れ違いに入ってきた冬海に軽く声をかけて。
ちゃんと教師してるじゃん、俺。
立派、立派。
控え室の扉を閉めて、煙草を口にくわえる。
―――上手く、いけばいい。
よく練習してたからなぁ。あいつ。
昼休みも、放課後も。
相変わらず人のいないところでやってたけど。
実際、よくついてきてたよ。俺のレッスンに。
ライターで火をともして、金澤は、はっと頭を振った。
いかんいかん。特定の生徒に肩入れするのはよくない。
俺は教師なんだから。コンクール担当だし。
いや、肩入れってわけじゃないんだが………肩入れか?
でも、自分の教え子を応援したくなるのは教育者の常ってもんで……。
「………………」
ぽりぽりと後ろ頭をかく。
ま、そんなに難しく考えることもねーか。
別に俺が採点するわけじゃないし。
考えるだけならOK?
紫煙をくゆらせながら、天井の低い廊下を歩いていく。
「あっ、金澤先生! ここは禁煙ですよ!」
コンクールの係りにあたった音楽科の生徒に指を突きつけられて、ひらひらと手をふった。
「悪い悪い、つい、な」
ポケットを探って携帯灰皿に押し付ける。
そのふたには『禁煙』の文字。
―――ぽい捨てはダメですよ?
そう言ってこれを渡してきたあいつに、俺は驚いた。
おまえさん、俺が煙草吸うって知ってたのか?
目を丸くすると、おかしそうに笑って。
―――だって匂いしますもん。
―――準備室の灰皿だっていつもいっぱいじゃないですか。
煙草は喉に悪いから、あいつの前では吸わないようにしていた。
副流煙は本人が吸ってる煙より悪いと聞くし。
学内でも、吸える所は限られている。
だからてっきり知らないものとばかり思っていたのに。
さりげない禁煙の文字に苦笑して。
俺が受け取ると、あいつはにっこり笑った。
―――吸いすぎは身体に悪いですよ?
あーとかうーとか言いながら視線をそらす俺を見て、今度は声を出して笑う。
その様子が意外にも鮮明に思い出されて、俺は一人で面食らってしまった。
灰皿の蓋を閉じ、ポケットに押し込む。
今日があいつの初舞台。
成功すればいい。
失敗してもかまわない。
結果がどうあれ、あいつが気持ちよく歌えたならそれで。
「びっくりした………金澤先生、いらしてたんですね。………先輩?」
鏡の前に座って微動だにしないを不審に思い、冬海は前に回って覗き込んでみた。
「先輩? どうされたんですか? もうすぐ時間ですよ」
心配そうな顔で首をかしげて。
その様子に少し笑ってみせる。
「あ………うん。そうだね、行こうか」
椅子から立ち上がり、冬海ちゃんを促して出口に向かう。
手に楽譜はもっていない。本番は暗譜だから。
―――気楽にいけよ。
金澤の言葉が耳の奥で響く。
気楽に? 気楽にですか? 先生。
―――いつものおまえさんを出せばいい。
いつものわたし。
いつものわたしなんかで、本当にいいの?
誰もいなくなる控え室の電気を消して外に出る。
少し近くなる会場のざわめき。
―――それ相応の演奏をしてもらえると、期待している。
閉ざした扉の取っ手を握る手が、不意にこわばった。
ダメ。
いつものわたしじゃ、きっとダメ。
かすかに震える手を、反対の手でぎゅっと握り締める。
並んで歩く冬海ちゃんに気づかれないように。
だって先生、わたし、上手くない。
あの人たちより、上手くないよ?
関係者専用の階段を上がっていく。
係りの生徒や先生たちが、せわしなく動いていた。
初心者まるだしで、レッスンで先生が言ってることも、ほとんど理解できなくて。
―――あー、どう言えばいいかな。なんて言うかこう、遠くに飛ばすようにさ、わからんか?
しきりに首をひねるわたしに、先生はがしがしと頭をかき乱す。
―――もっとやわらかくさ、伸縮自在に……そう、ゴムだな、ゴム!
ひらめいたように手を打った先生は、わたしの顔を見てまたうなだれた。
―――わからんか…………。
うんうん唸る先生。
きっと、音楽科の生徒ならわかったんだろう。先生の言ってること。
だけどわたしにはわからなくて。
先生にそんな顔ばかりさせてた。
上手く、歌わなきゃ。
先生が見てる。
月森君も、他の参加者も見てる。
きっと今朝の人たちだって。
ううん、それだけじゃない。
ここ最近感じていた、あの視線の持ち主たちが見てる。
突き刺すような、あの視線。
失敗は許されない。
会場が暗転する。
アナウンスが響き渡って。
『さあ、とうとう始まりました。学内音楽コンクール第一セレクション! 栄光を手にするのは誰なのか――――』
独特の熱気に包まれた講堂が、たくさんの人間の思いを内包しているようで。
心臓が、痛い。
一番目の演奏者が、スポットライトの照らす舞台の中央へ上っていった。