6 疑問はたくさんあるけれど
今考えれば、なんて無責任なことをしたのかと思う。
けれどそのときの金澤には、余裕なんて微塵も無くて。
自分らしくない行動に、自分自身が戸惑っていて。
が屋上を駆け出していくのを、ただ驚いて見送るしかできなくて。
だから、入り口の上の人目につかないスペースで、事の一部始終を人知れず傍観していた柚木に言われて、初めて気づいた。
―――彼女、音楽科に親しい友人でも?
いるはずがない。
いるほうがおかしい。
だってあいつは普通科で。音楽なんて初心者で。
柚木は悠然と微笑みながら語る。
―――彼女にしてみれば音楽科は皆同じですよ。自分に敵意を向けてくる。
敵意なんて大げさな―――とは言えなかった。
俺は知っているから。
音楽という世界の辛辣さを。
ライバルと火花を散らして。才能のあるヤツを妬んで。
みんな音楽を愛してる。
けどそれは、純粋であればあるほど屈折して。
時々、火原みたいな例外がいるけれど。王崎とか。志水………は、規格外だな。
だけど、あいつにそれがわかるわけがない。
だってあいつは普通科で。歌だって初心者で。
―――彼女は初心者ですよね。練習の仕方さえわからないほどの。
ああ、そうだ。
だからあんな歌い方をしていた。
不器用な、誰かに聞かれることを恐れる歌声。
なぜそんな歌い方をするのかと思った。
聞かせるつもりがないんじゃない。
聞かれたくないと願いながらつむがれたもの。
あんな歌を、俺は知らない。
十何年音楽をやってきて、あれほど不安に満ちた歌声は聞いたことがない。
切ないとも、悲しいとも違う。
あれは純粋な不安。
音楽に対する、不安。
これ以上あんな歌い方をすれば、喉をつぶすことは目に見えていた。
だから、止めた。
俺のところには来るなよ、と。言っておきながら。
たった一人で、必死で歌を探っているあいつを、止めた。
無責任に。
自分らしくないその行動をフォローするように、ふざけた口調で言葉を添えて。
―――しっかりしろよ? 声楽専攻の生徒だっているんだからな。
驚いた顔をしていた。
困った顔をしていた。
あの時、俺にちゃんとした余裕があったなら。
取り繕ったものではない余裕があったなら。
気づいていたはずだ。
その後ろにあいつが必死で隠している、助けを求める眼差しに。
だがその時の俺は、歌を失った時の記憶を必死に押し殺していて。
思い出さないように。
それと連動して引き出される苦い記憶を、思い出したくなくて。
―――俺のところには来るな。
―――その辺のやつに聞け。
あいつが助けを求められるのは、俺だけだったのに。
その言葉が、あいつから俺を遠ざけた。
来ればよかったじゃないか。
俺の言葉なんか無視しちまって。
火原とか、他のやつらみたいに。
教師なんだからって言って。
そんな歌い方をする前に―――。
だから柄にもなく追いかけた。
―――あのっ、ご忠告、ありがとうございました! お耳障りでしたら、もうここでは歌いませんから。
そう言って屋上を出て行ったあいつを。
柚木に諭されたのは癪だったが、追いかけた。
耳障り―――。
どんな気持ちでそれを言ったんだ?
歌が、好きなんだろう?
聴いていればわかるさ。
練習室で、誰にも聞かれていないと安心して歌うおまえの声を。
不安のない、透き通った、癖のない声を。
技術的にはまだまだ未熟な。
閉め忘れた窓から聞こえるその歌を、俺は知っている。
自分の歌を否定されて。認められなくて。
その苦しみを、悔しさを、俺は知っている。
嫌ってぐらいに。
おまえさんはそれを、どんな気持ちで言った?
すれ違う生徒たちに声をかけられながら、いいかげんに答えて影を探す。
いまどき珍しい黒髪の。
普通科の制服の。
平静を装いながら、たった一つの影を探す。
俺にできるのか?
とうの昔に歌を失ったこの俺が。
あの歌声を、引き出してやれるのか?
冷静な俺はそう繰り返すのに、足は止まらない。
あの時のあいつの顔が。
耳障りと、言ったときのあいつの顔が。
焼きついて離れなかったから。
見つけたのは練習棟の一室だった。
泣いているのかと思った。
ピアノの前に立ちつくして。
しかし、声をかけるべきか否か、ここまで来ておいて逡巡する俺に、それはやさしく響いてきた。
―――――――――――…………………。
それは、ファータの選んだ歌声。
いつか練習室の近くで聞いた、あの歌声。
導いてやれば、きっとものになるだろう。
多くの人間が認める歌い手になるに違いない。
導く者が、いれば。
―――週に一、二度でいいなら、発声、見てやるぞ。
その言葉に、あいつは心底驚いて。
そりゃそうだ。はじめに突き放したのは俺のほうなんだから。
だがそんなことは棚の上に放り上げる。
―――なんだ、いらないのか?
にやりと余裕の笑みを浮かべてやる。
そしたら慌てて首を振る。
―――いっ、いります!
あんまり必死に答えるものだから、俺は、わかったわかったと目の前の頭に手を乗せた。撫でるようにぐりぐりと。
一瞬きょとんとして、すぐに嬉しそうな笑みが浮かぶ。
僅かにほほを染めて、へへ、と。ひどく嬉しそうに。
…………………。
―――先生?
頭に手を置いたまま、まじまじと見下ろす俺を、不思議そうに見上げてくる。
―――あ? ああ、いや、なんでもない。
げふげふと空咳など繰り返して。
何を考えているんだ、俺は。
いや、マジで何を考えたんだ?
思い出せないのは年のせいなのか。
三十三にしてアルツハイマーはちょっと怖い。
なんにせよ、これで俺とは、この日から名実ともに教師と生徒におさまった。