4 四面楚歌? 






 「おはよう、冬海ちゃん」
 
 白い制服の群れの中に、見慣れた小さな後ろ姿を発見して、わたしは小走りに駆け寄った。
 振り向いた彼女は最初驚いていたけど、すぐににっこり微笑んでくれる。

 「あ………おはようございます、先輩」

 青いタイを身に付けた、音楽科の一年生。
 もう一度おはようと言ってから、やたら明るく言った。

「昨日眠れた? わたしは全然ダメでさぁ、緊張しちゃって…………」

 何とかして、この息苦しいほどの焦りを紛らわせようとしてのことだったのだが、言ってしまってから気がつく。

 「―――って、冬海ちゃんは慣れてるよね、音楽科だし。ごめん」

 こういうとき、同じ気持ちをわけあえる人がいないのって、つらい。
 いつもは友達とかと散々言い合って、きゃーっとかやって気を紛らわせるのに。

 あはは、とごまかして笑うと、冬海ちゃんは慌てて首を横にふった。

 「そんなことないです。あの………あたしも、緊張してしまって。舞台、苦手なんです」

 か細い声で答えてうつむいてしまう。
 あああ、まずかっただろうか。
 彼女が内気なのはわかってたのに、つい、口を滑らせてしまった。させなくていい緊張をさせてしまっている。

 「………えーっと、あっ、でもほらっ、わたしよりましだって! わたしなんかまったくの初心者なんだよ? 舞台なんか、中学のときの文化祭以来だし。まーったくの初心者!」

 やたら元気な声で言う。
 それはいいが、言ってる内容がしゃれじゃないのが悲しい。
 でもここは、冬海ちゃんのほうが大事だ。
 わたしの一言で調子を崩したんじゃあ、償っても償いきれない。
 彼女には、実力があるんだから。
 わたしと違って。

 ねっ? と笑いかける。

 「先輩…………ありがとうございます、励ましてくださって」
 「そんないいもんじゃないって」

 笑ってくれたのに安心して、とりあえず胸をなでおろす。
 自分のほうは何にも解決してないんだけど。
 いまだって心臓が痛いくらいだし。
 心不全でぽっくりいきそうだなぁ………。

 「せ、先輩…………!」
 「え?」

 そんなことを考えながら密かにため息をついていると、横の冬海ちゃんがつんと袖を引っ張って止まった。
 戸惑ったような、おびえたような顔をして前を見ている。
 だからわたしも前に視線を向けた。

 「あーら、普通科さん。こっちは音楽科の校舎でしてよ?」
 「間違えてるんじゃない?」
 「それとも迷子?」
 「…………………」

 赤いタイをつけた音楽科の生徒が三人。
 嫌な笑みを顔に貼り付けて立っている。

 見たことのない人たちだった。
 でも知っている。この視線。
 
 冬海ちゃんをさりげなく後ろにかばってにらみ返す。
 そんな必要はないだろうけど。
 だって、この人たちは、この人たちの悪意は全部、わたしに向けられているから。




 嫌な、笑顔。





 「身の程知らずもここまで来れば立派よねぇ。普通科の、しかも素人のあなたが、音楽科のエリートたちと同じ舞台に上がろうなんて」

 くすくすと、かすかな笑みを漏らしながら。
 突き刺すような、視線。
 嘲笑う、視線。
 このところ、なんとなく感じていたもの。
 理由はわかってたし、理解もできたから何も言わなかったけど。
 でも、いま、この時に来なくてもいいじゃない。

 「わざわざ恥をかくこともないでしょうに。どうせ結果はわかりきってるでしょう?」

 くすくす、くすくすと。
 鞄の取っ手を強く握り締める。

 「先輩……………」

 冬海ちゃんが泣きそうな声で呼んだけど、わたしは顔を向けられない。
 強く、強く、手が白くなるほど、強く。

 「お帰りになったらいかが? あなた一人が消えたところで、コンクールには何の差し支えもないわ」

 そうできたら、どんなに楽か。

 心臓が、痛い。

 余計な刺激を与えないで。
 いまのわたしに、余裕なんて無いの。
 あんたたちにわざわざ傷ついてあげられるほど、余裕がないの。



 そこをどいて。


 
 そう言おうとして、きっと視線を上げたとき。

 「そんなことを言っている間に、少しでも自分の技術を磨いたらどうかと思うが?」

 この場にはあまりにも不似合いな冷静な声が、後ろから割って入った。

 「月森君…………」

 音楽科の有名人。
 音楽界のサラブレッド。
 コンクールに参加する、実力者の一人。
 誰も寄せ付けない彼の冷たい視線が、目の前の三人を射ていた。

 「つ、月森君………これは」
 「君らがどう思おうが自由だが、そういう誹謗中傷は、周りの者も不快にする。見苦しい限りだ」
 「〜〜〜〜っ!!!!」

 怒りのためか、羞恥のためか。
 尊大な態度をしていた三人が、かっと顔を赤く染め踵を返して走っていく。
 隣の冬海ちゃんが、ほっと胸をなでおろしているのが見なくてもわかった。
 わたしも、知らずに入っていた肩の力が抜ける。

 彼が庇ってくれたのは意外だったけど。
 ものすごく意外だったけど。
 
 だって月森君も素人のわたしがコンクール参加者に選ばれたことを、ものすごく不愉快に思っていたのを知っていたから。
 それでも助けてくれたことには変わりない。
 
 ほっとして、笑みを浮かべようとした。

 「月森君、ありが………」
 「勘違いしないでくれ」

 切り捨てるような強い言葉。
 冷たい視線がわたしを射ている。さっきと同じ、鋭い視線。
 しかも眉間に皺までよっていて。

 「ああいう手合いは気に入らないだけだ。見ているこっちが不愉快になる。それに………」

 ちらりと時計に目をやった。
 時間がもうないのかもしれない。
 講堂の控え室に行く前に、一度音楽科の会議室へ寄らなきゃいけない。
 タイムテーブルとか、そういうのを取りにいかなきゃいけないから。
 月森君はこっちに視線を戻した。
 
 冷たいまま。

 「………俺も君を認めているわけじゃない。正直に言って、君が同じ舞台に上がることは不愉快だ」

 冬海ちゃんがおろおろしてるのがわかる。
 きっと、泣きそうな顔をしているに違いない。
 わたしは………。

 「だがコンクールに参加することを選んだのは君だ。それ相応の演奏をしてもらえると、期待している」

 それじゃ、といって、月森君は音楽科の校舎へ歩いていった。

 「―――せ、先輩? あの………」

 冬海ちゃんが今にも泣き出しそうな声で呼んでいる。
 



 ―――かってに期待なんてしないでください。





 「………いこうか、冬海ちゃん」

 にっこりと、笑って見せた。
 冬海ちゃんはそれでも不安げな顔をしていたけど、はい、と小さく答えてくれる。





 ―――期待なんかしないで。





 たしか、前にも同じことを考えた気がする。


 ああ、そうだ。
 初めてリリに会ったとき。


 『我が輩は、おまえに期待しているのだ!』

 きらきらと、金の粉を振り撒きながら。





 リリは確かにそう言った―――。









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