2 回想 ver.金澤
「おーおー、必死な顔して。大丈夫かね」
職員室の窓から下を見下ろして、金澤はため息を漏らした。
白い制服の波の中にひとり紛れていくその姿は、あまりにも小さくて。
顔面の筋肉がこわばっているのを、自覚しているのだろうか。
「リラックスしろって、言ったんだがなぁ………」
いや、それは無理な相談か。
金澤は思い直す。
彼女は初心者だ。舞台経験など、せいぜい小学校のころの音楽会程度。
音楽科の生徒たちに比べれば無いに等しい。
それなのに今日、彼女はたった独りで向かうのだ。あの舞台へ。
緊張するのはしかたない、か?
金澤は頭の後ろをぽりぽりとかいた。
多分いまも、必死の形相をしているんだろう。
あの時のように。
初めて音楽準備室の俺のところへ来たあいつは、見てるこっちがうろたえそうなほど混乱していて。
必死の形相で、無理だと訴えた。
自分は初心者なんだ、と。
―――参加者を選んでいるのは俺じゃないんでなぁ。
―――ファータを見たんだろう?
―――天命と思ってあきらめるんだな。
そう言うと、一層焦りの色を濃くしていた。
面倒くさい。
どうして俺が、コンクールの担当なんか。
適当に流してしまうのが良策だった。
コンクールの説明をして、書類を渡して。
音楽室や練習室のことは、そこら辺の生徒にでも聞けばいい。
わざわざ俺が説明する必要もないだろう。
コーヒーのカップを片手に、淡々とこなしていく。
ああ、そうそう。楽器も聞いておかないとな。
一応、担当者だから。参加者の楽器ぐらい把握しておかないと、職務怠慢だと言われてしまう。
―――おまえさん、楽器は?
おたおたしていたは、一瞬きょとんとしてこっちを見た。
―――何か弾けるんだろう? いくら初心者でも。
リリが選んだのだから。
それなりの音楽的要素をそなえているはずだった。
しかし、きょとんとしたまま、まっすぐにこちらを見て言う。
―――あたし、何も弾けませんよ。
意外な答えだった。
―――楽器が弾けない? ピアノもか。
怪訝な顔で聞き返すと、はいと答えた。
それならいったい、何で参加するって言うんだ。
これは音楽コンクールなんだぞ。
リリのヤツ、あんまり長く生きすぎてとうとうモウロクしたんじゃないだろうな。
―――歌を歌えって言われたんです。
そのときの俺はすこし………不自然だったかもしれない。
戸惑いはほんの一瞬だった、はずだ。
なぜか、どう反応しようか逡巡した自分がいて。
…………そうか、歌かぁ。
「歌」という単語に過剰反応する俺は、とっくの昔に消えたと思っていたのに。
その名残が完全に消えていなかったのか。
いや、もしかしたら。
コンクールに歌で参加すると言うこいつに、一瞬だけ昔の俺を垣間見てしまったのかもしれない。
忘れたと思っていた過去。
忘れようとした昔。
希望にあふれ、純粋に、まっすぐに歌と向き合っていた頃の自分。
それを振り切るために、俺は軽く手をふった。
―――いいんじゃねぇの? まぁ、適当に頑張れや。
今思えば、確かにあれは俺の失言。
―――なんかわからないことがあったら、その辺のヤツにでも聞けよ。
―――ああ、俺のところには来るなよ。俺は面倒見が悪いからな。
何気ない、いつもの俺の言葉だった。
よけいな仕事は増やしたくない。
おまえさんが頑張るのはかまわないが、俺まで巻き込まないでくれ。
俺はそんなにも若くないんだから。
は困った顔をしていた。
どうすればいいのかわからない。そんな顔。
こいつにはファータがついている。
俺が手伝ってやる必要もないだろう。
いま思えば、どうしてそんなことを思ったのか。
ファータが手助けしてくれるのは、楽曲や楽譜に関することだけなのに。
決して技術面で、ヤツらが干渉してくることはないのに。
俺はそのことを、知っていたはずなのに。
声楽は他の楽器に比べて、より他者の手を必要とすることを、俺は、わかりすぎるほどわかっていたはずなのに。
過去の傷から目をそむけようとする俺が、おまえさんから逃げたんだ。
おまえさんを通して見える、「歌」から。
困惑の表情を浮かべながらも出て行こうとするを呼び止めたのは、そのことを少しは自覚していたからかもしれない。
けれどなにか言えるわけでもなく。
俺の言葉を待つに、いいかげんに手をふった。
―――いや、なんでもない。もうすぐ予鈴がなるぞ。
と。