16 不可解なもの、不可解なこと。 ― 後編 −
「先生、この後はどうなさるんですか?」
「ん? ああ…………」
空になった水筒の蓋をに差し出し、火のついていないタバコをくわえたときだった。
水筒をしまいながら、がそんなことを軽く尋ねてくる。
もともとこの場所に目的があっていたわけではない金澤は、一瞬返答に困った。
特に予定があるわけでもなかったが、そう言ってしまうのはなぜか躊躇われて。
そうとは気取られないように金澤が思案していたその時。
「―――あれ、?」
の後ろから、声をかけてくる人物があった。
それを耳にした金澤は、相手を確認するまでもなく心の中で頭を抱える。
なんだって今日は、こうも会いたくない人間に会ってしまうのか。
密かに溜め息をつきながらそちらに視線をやれば、案の定予想は的中して。
「え? あ、土浦君」
振り向くのその先には、私服に身を包んだもう一人の普通科参加者、土浦遼太郎の姿があった。
ズボンのポケットに片手を入れたまま、こちらへ歩み寄ってくる。
「よぉ、休日に会うのは初めてだな………って、金やんもいたのか」
の向こうに金澤を見つけて、土浦は立ち止まった。
見えていなかったわけではないだろうに、本気で気づかなかったらしい。
「おいおい、それが教師を前にして言うせりふか?」
苦笑めいたものを浮かべて金澤は言った。
それに声をあげて笑う。
土浦は、悪かったって、とやはり教師に対する態度ではない様子で悪びれることなく謝る。
「土浦君は、今日も練習?」
水筒の蓋をしめながら、が土浦に問い掛けた。
「ああ、この先に、ちょっと知り合いの楽器店があってさ。そこで弾かせてもらおうかと思ってるんだが…………。そうだ、。おまえも来るか?」
「え?」
突然の申し出に、はきょとんと顔をあげた。まじまじと土浦の顔を見る。
それは、練習を聞かせてやるという意味だろうか。
いつも断りはしないものの、聞かせてほしいと頼めば決まって溜め息をつく土浦にしては、珍しいことだと思う。
はじめの頃は迷惑がられているのかと思ったが、どうやら照れているのだという事実に思い至るのに、さほど時間はかからなかった。
とはいえ、土浦自ら申し出てくれるのが珍しいということに変わりはない。
が目をぱちくりさせていると、土浦はそれを見下ろして穏やかに笑った。
「その楽器店、けっこうレコードとかも揃えててさ。おまえ、『夢のあとに』のCD探してただろ? たしか声楽曲のヤツもあったと思うぜ」
ああ、そういうことかと、は納得した。
つまり、練習を聞かせてくれるつもりなのではなく、ただその楽器店まで案内してやろうと、そういう意味なのだろう。
たしかに夢のあとにのCDは、少し前から探していて。土浦にもそんな相談をしたことがあった気がする。
金澤にも借りたのだが、一種類しかなかった上にずいぶんと古い物だったので、もう何種類か聞いてみたいと思っていたのだ。
そんなところに土浦のこの申し出は、ありがたくないはずがなく。
「覚えててくれたんだ、わたしが探してるって」
微笑んで土浦を見上げた。
すると土浦は若干視線をそらして。
「いや、まぁ、たまたま思い出したんだよ。ついでだし…………」
彼には珍しく、ごにょごにょと言葉を口の中で濁す。
それを取り繕うかのように、どうする、行くか? と問い掛けてきた土浦に、は一瞬、え、と言葉を詰まらせた。
彼の申し出はもちろん嬉しい。
願ったり叶ったりの話なのだけれど…………。
なぜか、即答出来ない自分がいる。
「どうした? 都合悪いか?」
固まったまま動かなくなったに土浦が首を傾げるけれど、は反応できぬまま必死に思案していた。
「え、っと………その」
そしてがようやく返答しようと口を開きかけたとき、それよりも一拍早く響いた別の声が、の背後から二人の耳に届く。
「そんじゃ俺は、お邪魔虫にならないうちに退散するかね」
なんの前置きもなくそう口を開いた金澤が、よっこらしょという掛け声とともに立ち上がったのだ。
手にしていたタバコをパッケージに戻し、無造作にポケットへおしこめる。
「先生?」
唐突な金澤の行動にがそちらを振り向けば、ポケットに手を突っ込んで、いつもの猫背な姿勢で立っている金澤がいて。
もうすでに、身体は進行方向をむいていた。
「お茶、ごちそーさん。ま、あとは自力で頑張れよ、。俺が見てやれるのはここまでだからな〜」
そう言い置いて、足を踏み出す。
のんびりとした足取りで。
一度も、の顔を見ないままに。
ちらりと見えた横顔は、いつものやる気のない笑みを浮かべていたのだけれど。
は金澤の後ろ姿を、戸惑いの眼差しで見やった。
いつもはちゃんと、顔を見てくれるのに。
二言三言、言葉を交わして。ちゃんと挨拶をして、別れるのに。
なぜか今日の金澤は、一度もこちらを見ずに去ってしまう。
まるで、避けられでもしているかのように。
「せ、先生! あのっ………」
なぜか小さな焦りが生まれて、は思わず声をかけてしまった。
なにを言うわけでもないのに。
振り返った金澤に、言葉を詰まらせてしまう。
に呼ばれて足を止めた金澤は、続くであろう言葉を待ってはみたものの、それがないのだと気づくと、あの、人をからかう時に浮かべるニヒルと言えなくもない笑みをうっすらと浮かべた。
そして口を開く。
「まぁ、おまえさんには土浦がいるから、心配はないだろうけどな」
少しだけ距離が開いてしまっているので、幾分か声量を上げて。
「え…………」
「なに言ってんだよ、金やん!」
抗議する土浦の顔が、わずかに赤らんでいる。
対するは、どこか呆然とした面持ちで。
「よかったな、。彼氏が音楽に詳しくて。仲良くやれよ、ご両人」
「金やんッ!」
肩越しに軽く手を振って再び二人に背を向ける。
土浦の怒声を背中に受けながら、一度はポケットにしまったタバコを取り出した。
「―――っ先生!」
彼女の声が響いたけれど、今度は振り返らない。
そのまま火を灯して、咥えタバコのまま歩き続けた。
「…………………」
後に残されたが、呆然とその後ろ姿を見送る。
まるでコンピュータがフリーズしたように、身体が動かない。思考も動いていないのかもしれなかった。
「なんだ、あれ? 金やんって、ああいうこというヤツだったか?」
怒りのせいか、それとも照れのせいなのか。わずかに顔を赤らめていた土浦が、居心地悪そうに後ろ頭をぽりぽりとかく。
腑に落ちないと言うように漏らしたぼやきは、しかしの耳には届いていなかった。
の頭の中を駆け巡っているのは先ほどの金澤の言葉。
『おまえさんには土浦がいるから――――』
『良かったな、。彼氏が――――』
その言葉が、ようやくの中で像を結ぶ。
結んだとたん、突如として湧き上がるなんとも言いがたい焦燥感。
胸の、奥が、痛い。
「それで、結局どうする。行くならそろそろ………」
「ごめん! 土浦君!」
突きあげてくる感覚に促されるまま、の身体は突然動き出した。
勢いよく振り返って、そのままの勢いで頭を下げる。
「わたし………わたし、行かなきゃ。あの、先生に、その、まだ、聞かなきゃいけないことがあって、だから…………」
慌てた様子で要領の得ない言葉を繰り返す。
鞄に水筒と詩集をしまい、半ばひったくるようにそれを手にして駆け出した。
「ほんとに、ほんとにごめんね!」
「え、あ、おい! !?」
の突然の行動に土浦は着いていくことができず、呼び止めようと差し出した手を空中に泳がせて。走り去っていくの背中を、呆然と見送ることしかできなかった。
*
「―――先生ッ!」
先ほど背中に聞いたのと同じ、しかしここで聞こえてくるはずのないその声に、金澤は後ろを振り向いた。
ここは公園を出てすぐの歩道。
入り口からさほど離れてはいなかったけれど、公園自体の敷地が広い。おそらく自分を追ってここまで走ってきたのだろう彼女の息は、激しく乱れていた。
会話をするには少し遠い距離をおいて、は立ち止まる。
大きく上下する肩、高潮した頬。
よほど必死に走ったのか、髪も若干乱れていた。
咥えたタバコの先から紫煙を立ち昇らせながら、金澤は口を開く。
「どうした、まだなにかあったのか?」
そんなに必死こいて、追いかけてこなけりゃならんほどに。
身体は斜に構え、首だけをそちらに向けて、金澤は飄々と言葉をつむぐ。
息も絶え絶えなこちらに対してあまりにも悠然としている金澤に、は憤りを覚えないでもなかったが、今はとにかく無理やりにでも息を整えることにした。
こんな距離を全力疾走するなど、めったにあることではないので少し胸が痛い。
けれどその痛みとはまた別に、確かに奥のほうでくすぶっている痛みがある。これはいったいなんなのか。
それよりもなぜ、自分は先生を追ってきたのだろう。
いったい何をするつもりで、こんなところまで走ってきたのか。
金澤の顔を見ながらそう自問するけれども、答えがでてくる兆しはいっこうに見当たらない。
けれどあの時、このまま別れたくはないと思ったのは確かで。
このまま、『誤解』されたまま――――。
「土浦が待ってるんじゃないのか? あんまり待たせると…………」
「違います!」
自分で予想していたよりも、ずっと強い語調で言葉が飛び出した。
そのことに金澤が面食らった顔をしているけれど、こうなるともう気にしてなんかいられない。
ただ、この胸の内でわだかまる何かを吐き出すように、は必死で口を開く。
「わたしとっ…………わたしと土浦君は、そんなんじゃありません!」
肩にかけた鞄の取っ手を、ぎゅっと握り締める。
一度流れ出てしまえば、それを塞き止めることはできなくて。
金澤はあっけにとられていたけれど、はもうどうすることもできなかった。
心臓がいつの間にか、先ほどまでとは違うリズムで脈打っている。
「土浦君は、わたしが色々相談するから………相談に乗ってくれてるだけで………やさしいから、だからなんです。ほんとに、そんなんじゃないんです」
どう言えばいいのか。どう言えば金澤に伝わるのかわからなくて、はせめてと言うように、金澤の顔をまっすぐに見つめる。
目がわずかに潤むのは、走ってきたせいだろう。
まだ息が乱れたままなのに話したりしたから、苦しかったのだ。
だって、でなければ、泣く意味がわからない。
目的もわからないままに先生を呼び止めて、追いかけて。
これ以上、わからないことなんて増やしたくない。
は心の中でそう呟く。
「……………………」
金澤はそんなの様子をしばらく黙って見つめていたが、不意に後ろ頭をかき乱し、深い溜め息をついて下を向いた。
咥えていたタバコを携帯灰皿に押し付けて消す。
「…………わかった」
そうして、呟くように言葉を漏らした。
「―――え?」
真剣な面持ちで金澤を見つめていたが、目をぱちくりさせる。
金澤はもう一度溜め息をついて。
「悪かったな、くだらんことを言った」
わずかに微笑みを浮かべてそう謝った。
「先生……………」
必死な顔をしていたに、ようやく笑みらしきものが浮かぶ。
わかってくれたのだろうか。自分と土浦はなんでもないのだということを。誤解していたのだということを。
はそう期待して、金澤の顔を見たのだけれど。
「別に隠すことでもないと思うがなぁ。ま、学院内ではそれなりに気を使ってくれよ? どこに誰の目があるかわからんからな」
「………………は?」
にやりと笑う金澤の言葉が、またしても理解できなかった。
いったいこの人は、なんの話をしているのだろう。
「せん、せい? あの、いったいなんの…………」
話をしているのかと、続けようとして遮られた。
あの、人をからかう時の顔をした金澤に。
「不純異性交遊うんぬんなんて時代錯誤なことは言わんが、イチャつくのは学校の外にしとけ? いくら練習室でも、扉の窓から中の様子は見えるんだからな」
練習室? イチャつく?
の頭に疑問符が飛び交う。
なに? いったい先生は、なんの話をしているの?
驚愕とも、呆然ともつかない表情をしているに、金澤はなんだという顔をして。
「先週の水曜だったか木曜だったか。ほれ、練習棟に行く途中のおまえさんたちとすれ違っただろう」
そう言われて、金澤がなんの話をしているのか相変わらずわからなかったけれど、とりあえず記憶を掘り起こしてみる。
そうすると、確かに思い至る日があった。
忘れようにも忘れられない。
例の手紙のことがバレてしまった日。
あの時、土浦君は見たこともないぐらい怒って。わたしに向けられた中傷の手紙に、ひどく怒って。
それから………それから、どうしたんだった?
上手く頭が回らないのはなぜなのか。は呆然としたまま必死で思考をめぐらせる。
「見回りに行ったのが俺で良かったな。生徒同士が抱き合ってる姿なんぞ、頭の固い先生が見たら卒倒もんだぞ?」
……………………ダキアッテイル?
新たな単語に、はいっそう混乱を深くした。
ダキアウ――――抱き合う?
脳内変換をようやく終わらせて、またもや頭の中に疑問符が浮かぶ。
あの日は確か、土浦君がひどく怒って。とても怒って………。
そうして、どうして相談しなかったのかと。
そう言って腕を掴まれて………。
悔しくはないのかと、腕を、掴まれて…………?
ある光景に思い至って、は愕然とした。
あの時、土浦は練習室の扉に背を向けていた。
彼は同年代の男子の中でも背が高くて、肩幅も広くて。
の腕を掴むのに、少し………そう、ほんの少しだけ、背をかがめていて。
それは後ろから見れば、例えば練習室の扉の向こう側から見れば、抱きすくめられているように見えなくもなかったかもしれない。
けれど実際は、腕を掴まれていただけで。
そう、抱き合っていたなどとは、勘違いも甚だしい誤解だ。
誤解――――。
「せんせ、それ、ちが…………ッ!」
あまりにショックが大きかったせいか、今度は先ほどにも増して口が上手く回らなかった。
誤解を解かなければ。
その気持ちばかりが焦ってしまって、頭も身体もついていかない。
そしてそれは、最悪の形で金澤にくみ取られてしまい…………。
「心配しなくても言いふらしたりしないぞ。俺もそこまで悪趣味じゃないからなー」
などと言いながら、くるりと踵を返す。
歩き出す金澤の後ろ姿。
―――このままでは、さっきとまったく同じじゃないか。
呆然とそれを見つめたまま、の頭の中で誰かが言った。
―――誤解されて、からかわれて。
そのまま、捨て台詞を残して去っていく。
頭より先に、身体が動いた。
まだ息は苦しいままだったけれど。
心臓は、うるさいくらいに脈打っていたけれど。
それでも足が動いて。
手が、動いて。
―――いったい何のために、自分はここに来たの?
「――――っ」
差し伸べた手は、目の前の服を掴んでいた。
落ち着いた色合いのそれを、ぐっと握って。
そうされた方の人間は、もちろん背中を引っ張られるわけで。
「……………」
眉を上げ、目を見開いた金澤が、自分の背中を振り返る。
服を掴んでいる張本人を見下ろして。
視線がぶつかった。
まっすぐにこちらを見上げてくる瞳。
肩からずり落ちた鞄もそのままに、自分を引き止めようとしている手。
そして。
「―――違いますから」
いつも、不安定ながらも美しく透き通った旋律をつむぎだすその唇が。
静かに、まるで囁くように、けれどしっかりとした重みを持った声で、そう言った。
2005/5/15 up
お待たせしました、後編です。
若いです、ヒロインさん。(笑)
行動力は若者の特権ですか。
先生、頑張らないと負けそうですねぇ。