14 大丈夫
金澤は、前から歩いてくるでこぼこコンビをいち早く見つけた。
練習棟とつながっているこの廊下では見かけることが珍しい、普通科の制服。シルエットさえ見れば、それが誰であるか容易に合点がいく。
金澤は声をかけるでもなく、そのまま歩き続けた。
向こうはまだこちらに気づいていない。楽しそうにしゃべりながら小さいほうは隣を見上げ、大きいほうはそれに答えて笑っている。
ふと、大きいほうと目が合った。
「あ、金やん」
「え?」
大きいほうの呟きにこちらを見ると、小さいほうはとたんに満面の笑みを浮かべる。そしてそのまま小走りによってきた。
「先生!」
それを見下ろして立ち止まる。
小動物のようだと思いながら、いつもの調子でその頭に手を置いた。
「おー、練習か?」
「はいっ」
ぱたぱたと揺れる尻尾が見えそうな気がして、思わず苦笑が漏れた。
しかし、後ろから追いついてきた大きいほうと目が合って、それを引っ込める。
(なんか睨まれてないか? 俺)
普段から鋭いその目が、なぜか今日に限って妙な光をたたえているように感じて、金澤は小動物の頭から手を下ろした。
とたんに消える圧迫感。
そのことで合点がいく。
(なるほど………若いねぇ)
心の中で苦笑しながら、しかしそれを表には出さない。
「土浦、おまえさんも練習か?」
同じ調子で尋ねると、ああ、と少しぶっきらぼうな答えが返ってきた。
これも若さゆえかと苦笑する。
「土浦君が伴奏してくれるって言うんで、お言葉に甘えて手伝ってもらおうと思って」
ね。と土浦を見上げる。土浦は笑ってそれに答えた。
仲のよい生徒のカップルと、それをほほえましく見守る教師。
なんとも理想的な構図だと、金澤は思う。
「ほう、余裕だなぁ、土浦。ライバルの手伝いとは」
それを崩すつもりなんてさらさらない。
ただ、からかうつもりで言った。
土浦もにやりと笑う。
「これくらいで遅れをとるほど、腑抜けちゃいないんでね」
自信に満ちた態度。
それを支えているのは若さなのか、それとも別のなにかなのか。
土浦の目は、こちらをひたと見据えて離さない。
明らかに、挑んでくる視線。
おまえさん、それを送る相手が違うぞ。
もっと他にいるだろ、牽制しなきゃいけないやつらがさ。
俺とこいつは教師と生徒。
個人レッスンなんてしているものだから、ほかより親密に見えるのかもしれないが。
どう転んだって、歌の教師とその教え子以上の関係なんてありえない。
どこぞの恋愛小説じゃあるまいし。
おまえさんの相手は俺じゃないよ。
―――勘繰る必要なんざないんだぜ?
まっすぐに噛み付いてくる土浦に、苦笑と視線でそう返す。
それでも納得のいかない顔をしていたので、言ってやった。
「それはそれは。ま、仲良きことは美しきかな。仲良くやんなさい、ご両人」
いつもどおりの軽い口調。
俺には関係ないね、とでも言うような。
けれどその後あんなことをしたのは、視界の端にあいつの顔が映ったから。
満面の笑みが、わずかに曇るのを見たから。
ほんのわずかな陰りだったのだと思う。
それでもわかってしまったのは、おそらく個人レッスンのたまもの。
身体や精神の不調は如実に歌声に現れるものだから、僅かな変化でもすぐに目にとまる。
これから練習するという教え子を、不調になるだろうことが予想できてなお放っておけるほど、金澤は薄情ではない。
だから去り際に、もう一度頭に手をおいた。
「練習、がんばれよ」
そう言葉を添えて。
結果は確かめるまでもない。
なぜだかは知らないが、そうすればまた笑顔が戻るのを知っている。
土浦が睨んでいるのを背中に感じながら、振り返らずに歩いていった。
案の定、元気に答えるあいつの声を聞きながら。
さして広くもない練習室の一室。
グランドピアノと譜面台をはさんで、二人は向かい合っていた。
しかし互いに目を合わせることはない。
歌い手であるは視界の隅に土浦をおさめるだけで、意識は練習室の壁を突き抜け、さらに遠くを見つめている。土浦だけが、時折のほうへ視線をやり、彼女が送るサインを読み取って伴奏のタイミングを計っていた。
やがて、練習室の空間いっぱいに広がっていた歌声が余韻を残して消え去る。続く伴奏のピアノも最後の一音を丁寧に響かせて終わった。
全ての音が消えた後の沈黙まで律儀に表現して、その曲の演奏者はやっと息をつく。
「あ〜〜〜、難しい!」
グランドピアノに寄りかかるなり、そう呻いた。
歌っている時には想像もつかないその動作に、土浦は思わず笑う。
「うまく歌えてたと思うぜ?」
正直に賞賛した。歌に関してはまったくといっていいほど無知だが、の歌は相変わらず祈りのように澄んでいて、心地いいと感じる。
しかし本人は突っ伏したまま、かぶりを振った。
「なんかね、こうしたいっていうのはあるんだけど、技術がそれについていかない…………」
さめざめと泣き出しそうな勢いだった。
るーるーという効果音がついてきそうだ。
土浦は笑いながらピアノを叩く。
「そう気落ちするなよ。次のセレクションまでまだ時間はあるんだし」
ありきたりな言葉だと思ったが、うなだれていたはそう言われて顔をあげた。少し小首をかしげて。
「ありがとう。土浦君も練習しなきゃいけないのに、つき合わせてごめんね」
つられて微笑みながら申し訳なさそうにするに、土浦は尊大に言ってみせる。
「さっきも言っただろ、これくらいで遅れをとるほど、腑抜けちゃいないって」
声をたてて笑うに、不自然なところはどこにも感じられない。
昼に月森と話をしてから、土浦はの様子が気になって仕方がなかった。何もせずにはいられなくて、月森と別れたあとの教室に向かったのだ。そこで見たには、どこにも変わった様子などなく、ほっとすると同時にじれったくも感じた。
目に見えておかしければ、問いただすこともできただろうに。
しかし、突然尋ねてきた自分に、どうしたの? と、首を傾げるは、いつもとまったく変わらなくて。
だからこう言うしかなかった。
ピアノの伴奏してやろうか、と。
しばらく近くで見ていれば、何か気づくことがあるかもしれないと思ってのことだった。
しかし、こうしてもう二時間ちかく一緒にいるが、の様子に変わったところなど見受けられない。
俺の思い違いだったのか?
朝の様子も、登校時間の変化も。
みんな自分の考えすぎだったのだろうか。
それならいい。なにもないほうがいい。ましてや自分が抱いている疑念は、決して喜ばしいことではないのだから。
土浦がそんなことを考えていると、が、あ、と声をあげた。
左手の腕時計を見ている。
「もうそろそろ下校時刻だよ。急いで片付けないと、鍵も返さなくちゃいけないし」
そう言って、楽譜をなおしはじめる。
「ああ、もうそんな時間か」
土浦も、ピアノを片付けるために立ち上がった。
「ごめんね、結局今日一日あたしにつき合わせちゃって」
「だからいいって言ってんだろ。気にすんな」
楽譜を鞄に入れると、戸締まりをしに窓のほうへ駆け寄る。
土浦はピアノのカバーをかけようとして、その上に置かれてあるものに気づいた。
制服の上着だ。
が歌う前に脱いだものだった。
「おい、これ……っと」
ふわりとなにかが足元に落ちた。
の制服のポケットに入っていたのだろう。
持ち上げたひょうしに落としてしまったようだ。
土浦はそれを拾い上げる。
二つに折りたたまれていた。少し皺のよった小さな紙。
はじめはメモかなにかかと思った。
それくらい無造作で、軽い紙切れ。
表の面を内側にして折られたそれにはしかし、表に文字を綴っているのであろう赤いペンのシミが、裏面にありありと滲んでいた。
逆からでも書いてある内容をはっきりと認識できるほど、ありありと。
無言のまま、それを開く。
「こっちはもういいよ、土浦く…………」
振り返ったの声が固まった。
土浦が手にしているそれを見て。
今までずっと、自分の胸ひとつにしまい続けていたそれが、なぜ……?
―――見られた。
目の前が一瞬ぐらりと揺れた。
見られてはいけなかったのに。
どうして、なぜ土浦があの紙を持っているのだろう。
混乱する頭で考えて、土浦が逆の手にもっている自分の上着が目に入る。歌う前に、暑くなるからと脱いでピアノの上に置いたものだ。
忘れていた。
今朝、自分が押し込んだあれのことを。
忘れよう、忘れようとして、自分はなんて不注意にあれを放置してしまったのか。
その軽率さを呪ってももう遅い。
土浦はあれを手にして、開いて、読んでしまっている。
「…………つ、ちうらくん、それは、あの」
「―――なんだよ、これ」
なんとか誤魔化そうとして発した言葉を遮られて、は肩を震わした。その声の低さに驚く。
土浦は紙面に目を落としたままで、こちらを見ていない。
それでもはっきりとわかるほど、静かな怒りが土浦を包んでいた。
は咄嗟に声が出ない。答えるべき言葉も見つけられないでいた。
土浦はグシャリと紙を握りつぶす。
「なんなんだよ、これはっ!!」
固めた拳を力任せにピアノにたたきつけた。
耳障りな衝撃音とともに、中の弦がいっせいに震える。
「――――っ!」
普段の土浦なら絶対にしないピアノに対するその暴挙に、は身を強張らせた。
それほど怒っているのだ、土浦は。
理由はよくわからない。
けれど土浦の押さえ切れない怒りが、を怯えさせた。
「―――つ、土浦く」
「いつからだ」
有無を言わせない土浦の問いがを射る。
みたこともない鋭い視線。怒りと激情で濃く染まっている瞳。
向けられた視線が逃げることを許さない。
は胸元を握り締めながらわずかに躊躇して、答えた。
「………二、週間くらい、前」
「これだけじゃないんだな」
そう言われて、はっとする。
これでもう、それ一度きりだという誤魔化しは通用しない。
は否定も肯定もできずにうつむいたが、土浦にはそれでじゅうぶんだった。
「なんで黙ってたんだ」
「………………」
はうつむいたまま答えない。
それに苛ついて、土浦は大股にへ近づき、その腕を掴んだ。
「なんで俺たちに相談しなかった!」
この二週間、何度も何度も話をしていたのに。
いつものように、何人かでつるんで他愛もない話をしていたのに。
その間ずっと、こうした手紙をポケットの中に忍ばせていたのだ。
この、悪意と害意に満ちた紙切れを。
何も言わず、表情にも出さず。
周りに、俺たちに気取られないように。
傷ついていないはずが、ないのに。
腕を掴んで強引にこちらを向かせた顔がひどく怯えているのに気づき、土浦は少し力を弱めた。それでも逃げ出さないように手は離さない。
は土浦から顔を隠すようにうつむく。そして小さな声で言った。
「……………どうして?」
「なに?」
聞こえなかったわけではない。その意味が理解できなくて、土浦は聞き返した。
「どうして? 相談することなんて、何もない、よ?」
今度ははっきりと、しかしうつむいたままで言った。
その口調には笑みさえ伺える。
土浦は眉をひそめての顔を覗き込もうとした。
「おい、、おまえなに言って………」
「だって本当のことでしょう!?」
ばっと顔をあげて、は声をあげた。
まともに視線がぶつかる。
「どうして怒る必要があるの? どうして傷つく必要があるの? 本当のこと言われてるだけ。悩むことなんてないよ」
「…………」
土浦は咄嗟に言葉をつむげない。
そう言って笑うの目が、ひどく悲痛に見えたから。
この言葉を、いったい何度繰り返したのだろう。
たった独りで。
朝、下駄箱を開けるたび。
ポケットの中の存在を、意識するたびに。
土浦の顔が、怒りではないものによって歪む。
「………なにが、本当のことだよ。悔しくないのか? おまえ、必死に努力してるじゃねぇか。上手くなろうとして、頑張ってるじゃねぇか。それを、なんにもしらねぇやつらにこうして好き勝手なこといわれて、おまえはそれでもいいって言うのか!?」
こんな紙切れ一枚で。
こそこそと、陰に隠れて。
声を荒げては、また怯えさせてしまうかもしれなかった。それでも溢れ出す感情を抑えきれずに、ついつい語調がきつくなる。
しかしは、まっすぐに土浦を見上げたまま言った。
「だって、わたしになにが言えるの? どんなに頑張ったって、どんなに努力したって、どうにもならないことがあるんだよ? わたしが初心者なのは、どうしようもない事実で。そのわたしが、自分より上手い人たちに、なにを言えるの?」
「――――っ」
土浦には答えられなかった。
の歌はファータが選んだもの。
確かに美しく、素質があるのだと思う。
しかし、今の彼女よりも、技術も、表現力も勝っている人間がいることもまた、動かしようのない事実だ。
実力で劣る相手に、なにが言えるだろうか。
それは全て、負け犬の遠吠えにしかならない。
「…………それでも……おまえがこうして我慢してやる義理なんて、ないだろうが」
それも、たった独りで。
誰にも気づかれることなく。
こんな、卑怯な嫌がらせに。
なんで、我慢してやる必要がある?
「…………金やん。金やんは知ってるのか?」
ふと思い出して、尋ねた。
が一週間に二度、レッスンを受けているのを知っている。
彼女が金澤を頼りにしていることも、尊敬していることも。
相談をもちかけるなら、うってつけではないか。
しかし、は視線をそらして首を横にふった。
「なんでだよ。そりゃ、金やんに言ったからって、どうなるもんでもないかもしれないけど…………」
ましてや教師の彼に、生徒同士のあれこれに介入しろという方が難しいのかもしれないけれど。それも、こういった問題で。
それでも、話を聞いてもらうくらいはできたはずだ。
金澤も、それを拒まないはずだ。
不本意ではあったが、土浦にはそんな確信があった。
けれど、はなおも首を横に振って。
「ダメ」
小さな声だったけれど、きっぱりと言う。
頑なな印象さえ受ける声だった。
「…………先生には、言わないで」
そう呟いたに、どうしてという言葉が喉までせり上がった。
しかし、その表情を見て飲み込んでしまう。
うっすらと浮かべられた笑顔。
「困らせたく、ないし………。それに、先生がせっかくレッスンしてくれてるのに、こんなの、いい気分じゃないでしょ?」
「……………っ」
誰よりも傷ついているのは自分のはずなのに、はそう言って微笑む。金澤を、困らせたくないのだと。
土浦は、手の中の紙切れをこれ以上なく強く握り締めた。
こうやって、彼女はいままで耐えてきたのだ。
彼女の中にあったのは、この赤い文字と、言い知れぬ不安と、周囲に対する配慮。
「……なんで………っ」
憤りに詰まる喉から、声を絞り出す。
泣きつけばよかったのに。
俺や、月森や、先輩や………。
そばにいる人間に。
傷ついているのは、おまえなんだから。
そうすれば、守ってやったのに。
おまえがなにも言えないというのならそれでもいい。
ただ、おまえの傷が少しでも軽くてすむように、どんなことだってしてやったのに。
どうして、おまえは…………。
「―――土浦君」
広がった沈黙をやぶって、不意にが口を開いた。
穏やかな笑みを浮かべている。
「ありがとう。心配してくれて」
泣きもせずに、そう言って微笑む。
今ここで、彼女が泣いたなら。
一粒でも涙を見せたなら。
迷わずこの胸に抱きしめて、離さないのに。
どれほど本人が拒んでも、傷つけたやつらを引きずり出して、この手で制裁を加えてやるのに。
はにっこりと笑ってみせる。
いつものように。
だから掴んでいた腕をそっと離した。
握り締めていた紙を自分のポケットの中に押し込んで、落としていた上着をひろっての頭の上にかぶせる。
二人ぶんの鞄を持って、出口に向かった。
「土浦君!?」
慌てて頭から上着を取ったが、驚いた声をあげる。
土浦はそれを肩越しに振り返った。
「早く着ろよ。下校時刻とっくに過ぎてるぜ」
はわたわたと上着に袖を通した。
駆け寄ってくるのを待って、土浦は練習室の扉を開ける。
ドアノブに手をかけたまま、に言った。
「おまえがなにも言わないっていうのなら、それでもいい。けどな、俺は俺なりの方法でおまえを守らせてもらう」
「え?」
は目を瞬かせる。
「おまえにこんなことで調子を落とされたら、たまったもんじゃないからな。第二セレクション入賞者が、こんなくだらないことで辞退なんてことにでもなってみろ、それこそ俺は認めないぜ」
土浦は隣を見下ろした。
丸い目でこちらを見上げているに、口の端を緩めてみせる。
「…………独りで耐えることなんかない。少しは俺たちを頼れよ」
言ってしまってから、そのこっ恥ずかしさに気づいて土浦は顔をそむけた。耳が赤い。
「…………土浦君、耳まで、真っ赤」
「うるせぇ!」
声を必死で殺しながら笑うに、土浦は照れ隠しなのか、歩調を速めて歩き出した。
あわててその後を追う。
目の端を拭ったのは、笑いからくる涙。
もう、あたりに人の気配はまったくない。
夕日の差し込む練習棟の廊下を、普通科の二人は足早に過ぎ去った。
金澤は音楽準備室の窓越しに、オレンジ色の日差しを受けて下を眺めていた。
練習棟から出てきた二つの人影を見つけて。
「……………」
くわえた煙草から立ち昇る紫煙が、金澤の視界を濁らせる。
二つの影は楽しそうに戯れていた。
放課後の、当たり前の光景。
それはまさに、仲良く連れ立って家路につくカップルの図。
今まさに彼女が相手に向けているであろう笑顔を鮮明に想像することができて、金澤の眉間に、知らず小さな皺がよった。
「……………なにやってんだ、俺は」
呟いた言葉は響かずに消えてゆく。
俺は大人で、教師で。
あいつらの世界をただ見守っていてやればいい。
それが役目。
それが立場。
そんなのは、わかりきったことだ。
なにを戸惑う必要がある。
なにも知らないガキじゃあるまいし。
そうだろう?
たかだか、あいつらが抱き合っていたぐらいで…………。
金澤は苦い煙を肺いっぱいに吸い込んだ。
確実に蝕まれていくことを自覚しながら、それを望んでいるかのように深く深く吸い込む。
ほんの数時間前、練習棟につながる廊下ですれ違ったとき、俺はあいつに触れた。
教師として。師匠として。
僅かに見えたあいつの不調を、取り除いてやるために。
それは、なにも特別なことではなかった。
けれどそのとき微かに、胸の奥で覚えた感情。
俺はそれがなんだったのか、知っている。
―――それは、わずかばかりの優越感。
いったい誰に対する?
なぜそんなものを?
疑問は金澤の心を、確実に蝕んで。
見回りで再度訪れたとき、練習室の扉の窓から見えた光景。
すこし屈められた男の大きな背中と、そのすぐ向こうに見えるあいつの影。
一瞬だった。
すぐにその場を立ち去る。
それでじゅうぶんだった。
密室に男女が二人きり。片方は確実に相手に好意を持っていて。
自然な構図。
予想範囲内の構図。
生徒同士の自由恋愛に、教師が口を出すほど野暮なことはない。
だから、今こうして窓の外を見やっていること自体、おかしな話だ。
俺には関係ないだろう?
俺は大人で。
当の昔に、そういう関係も嫌というほど経験していて。
そしてその裏側にある残酷さや、醜悪さまで嫌というほど知っていて。
しかしなぜか金澤の身体は動かない。
窓の脇に身を寄せたまま。
二人並んで歩いていく姿から視線をはずせない。
フラッシュバックのように、練習室で見た光景が脳裏にひらめく。
「……………俺には関係ない」
言葉にすることで、より確かなものとするかのように。
金澤のはっきりとした呟きは、夕暮れに染まる準備室に響いて溶けた。
次の日の朝。
またもや下駄箱の前でにらめっこをしていたは、後ろからこつんと頭を叩かれてはじかれたように振り向いた。
「土浦君!」
「よう」
そう言った土浦の右手には、見慣れた二つ折りの紙切れ。
「それ…………」
が視線でそれを指すと、土浦はああ、と頷いた。
「悪いとは思ったが、勝手に下駄箱あけさせてもらった」
ひらひらとそれを振ってみせる。
やはり赤いインクが滲んでいたが、内容まではわからない。
おそらくまた、自分を罵る内容のものなのだろう。
そう思っていると、また頭をたたかれた。
「そんな顔すんなよ。せっかく人が先に取ってやったのに」
土浦が苦笑している。
だからもつられて笑った。
「そうそう、笑っとけ。こんなもん、見なけりゃただの紙くずだ」
そう言って、土浦はそれを握りつぶした。
事実は変わらない。
あの紙は、たとえ目に触れなくても確かに下駄箱へ入れられたもの。
その意味が、変わるわけではない。
それでも土浦の行為は確かに、の中のわだかまりを少し軽くしていた。
2005/3/30 up