13 疑念、真実






 朝は嫌いじゃなかった。
 
 眠るのは好きだし、起きるのは季節を問わず年がら年中辛い。
 でも、夜を過ぎて洗われたような、冷たい朝の空気が、匂いが、嫌いじゃなかった。
 
 だけど少し前から、朝が微妙に憂鬱だ。
 頭が重いというか、痛いというか。
 理由はわかっているんだけど、同時にどうしようもないということもわかっていて。

 自然とため息の回数が増えてしまう。
 今日、朝起きてから何度めかのため息をついた。

 下駄箱の前。

 番号が無造作に刻まれた茶色い小さな扉を見つめる。
 たっぷり十秒はにらめっこをして、意を決したように開いた。


「……………」


 見慣れた上靴、と、ここ数日で見慣れざるを得なかった紙切れ。
 上靴の前に紙切れを手にして、またしばらくにらめっこをする。

 見なければいい。
 書いてある内容はわかっているのだから、見ずにポケットの中に押し込んでしまえばいいのに。
 なぜかにはそれができなかった。

 二つ折りにされたそれをそっと開く。
 赤い文字で。











『 場 違 い   辞 退 し ろ ! 』












 それを見て、またため息を落とした。
 頭痛がする、ような気がする。
 このお世辞にもセンスがいいとはいえない手紙は、初めてのもとに届いてから、一日も欠かすことなく送られ続けていた。

 傷つかないと思ってたんだけどなぁ。



 は制服のポケットにそれを突っ込む。
 続けて上履きを足元に置いた。



 こんな紙切れのことなんかすぐに忘れて。
 やらなきゃいけないことはたくさんあるから。
 傷つく暇もないと、思ってたのに。



 階段を上って二年生のフロアへ。
 教室に入れば仲のよい友人たちが笑って挨拶をしてくれるはずだ。



 それなのに、この赤い文字は心の奥に積み重なって。
 少しずつ、少しずつ、その存在を大きくしていく。



 途中ですれ違った天羽ちゃんやほかのクラスの友達に笑顔を向けて、人の多い朝の廊下を歩いていく。
 自分の教室の前にたどり着いた。



 本当のことを言われているだけなのに―――。


 そう考えて、ああ、と思う。

 本当のことだから、余計にダメージが大きいんだ。




 閉ざされた扉を開くために手を伸ばした。
 扉の向こうに、クラスメイトたちのざわめきが聞こえる。
 


 謂れのないことなら跳ね返せた。
 無視することだってできる。
 だけど本当のことは、受け入れるしか、ない。



 引き戸をがらりと開けて、笑顔で言った。
 おはよう、と。
 返ってくる挨拶。
 変わらない笑顔。



 だからわたしは毎朝この手紙を開く。
 無視することができないから。
 跳ね返すことができないから。
 ただ受け入れるために。



 ポケットの中の違和感を追い出して、わたしは笑う。
 いつものグループに混ざって。
 他愛もない話に花を咲かせながら。








 ―――わたしは何も、言い返せない。























 嫌なやつと目が合った。
 土浦の眉間に、知らずうっすらと皺がよる。
 昼のエントランス。
 昼食のパンを買いにきて、その帰り。

 生徒でごった返すその中で、なぜわざわざこいつと顔をあわせるのか。
 音楽科の、天才ヴァイオリニスト。
 偶然にしちゃあ、お世辞にも気が利いてるとは言えない。
 向こうも同じことを考えているのだろう。
 普段から無愛想な顔に、今は眉間に皺まで刻んでいる。

 お互い様なんだが、無性に苛立って仕方がない。
 無視して通り過ぎればいいんだが、なぜか最近、不可抗力でつるむ機会が増えていたので、なんとなく声をかけてしまった。


「…………よう」

「…………ああ」


 お互いに、それだけ言ってすれ違う。
 これが最近の関係。
 しかし今日は、勝手が違っていた。
 月森が、真正面で立ち止まる。


「………なんだよ」


 土浦は訝しげに相手を見下ろした。
 土浦のほうが上背があるので、近くに立つとどうしてもそうなってしまう。とはいっても、決して月森が低いわけではない。土浦が高いのだ。
 相変わらずの渋面で、月森は甚だ不本意だというオーラを発しながら口を開いた。


を知らないか?」

?」


 向こうから関わってくるなんて珍しいこともあるもんだと思っていたら、なるほど、そういうことか。
 土浦は腕を組んで答える。


「さぁ、今日はまだ一度も見てないぜ」


 お互いに、相手の感情には薄々感づいていた。
 本人たちに自覚があるかどうかは別にして、一人の少女の存在がそれぞれに何らかの影響を与えていることは、目に見えてはっきりしている。
 今のこの二人の微妙な関係も、彼女が間にいたからこそ成り立ったのだといえる。そうでなければ、きっとこうして話すことなどありえなかっただろう。
 月森は、そうか、と呟くと、何か思案するように視線をそらした。


「なにか用があるのか? だったら伝えといてやるぜ。どうせあいつの教室の前を通るからな」


 土浦のこんな言葉も意外だった。
 親切心からなのか、それとも別の、例えば月森に対する牽制の意味からなのか。今のこの場では計りきれない。
 しかしどちらであったにしろ、月森はこの申し出を断っていた。


「いや、遠慮しておく」


 彼女に会ったところで、明確な目的があるわけではなかったから。かけるべき言葉も、話題も用意していない。
 ただ、ひどく気になることがあったので、彼女の様子を確かめたかっただけなのだ。


「そうかよ」


 土浦は不機嫌に言った。
 それでもやはり、先の言葉がどちらの意味であったのかは判断がつかない。せっかくの親切心を無下にされたことへの苛立ちか、あるいは牽制が失敗したことへのあせりか。
 月森は一瞬逡巡し、じゃあな、と言って横をすり抜けようとする土浦を呼び止めた。
 彼のことは気に食わない、が。


「………話が、あるんだが」

「なんだよ?」


 少なからず驚いた顔をして、土浦はこちらを見下ろしていた。
 なぜだろう、最初から馬が合わなかった。
 今でも、ことあるごとに衝突しては、互いに不愉快になる。


「ここではちょっと……。場所を移さないか」


 それでも今こうしているのは、彼のことをわずかながらも認めているからなのだろうか。


のことなんだ」


 一層怪訝な顔をする土浦に言った。言えば必ず、了承することはわかっていたから。
 土浦は少しだけ目を見開く。よほど、この話題が意外だったのだろう。

 そうさせたのは、彼女だ。
 二人の間に険悪な空気が流れると、決まって割り込んできた。困った顔をして。時には怒りながら。
 それを見て、どちらも意地を張っていられなくなる。


「………わかった」


 案の定、土浦は頷いた。


「いこう」


 どちらからともなく歩き出す。
 できれば本人がこない場所がよかった。互いにそれを察しているのか、特に言葉を交わさなくても自然と同じ方向へ足が向く。

 反目しあっているはずなのに。
 いけ好かないはずなのに。
 彼女という存在が、二人の奇妙な関係を取り持っているのは明白だった。




















「それで? がどうしたって?」


 練習室のあいている一室に入り、鍵をかけて対峙した。
 土浦は壁に背中を預け、腕を組んでいる。
 月森はおもむろに口を開いた。


「最近、の様子でなにか……変わったことはなかったか」

「は?」


 的を射ない月森の言葉に、首をかしげる土浦。当然の反応だ。
 しかし月森は言うべきか否か、ここにきてまだ迷っているようだった。
 土浦は苛立たしげに頭をかく。


「なんだよ、はっきりしろよ」


 言ってもらわないことには反応のしようがない。そう暗に言う土浦を見て、月森はわだかまる迷いを断ち切るべきか悩む。
 言うべきか否か。
 土浦を選んだのは偶然だった。
 の姿を探して赴いたエントランスに本人は見つけられず、たまたますれ違ったのが土浦だっただけだ。

 しかし、もしそれが別の人間だったなら、たぶん自分はここにはいないだろう。あまり不用意に、話題にできる内容ではないから。
 ということは、自分は彼を僅かながらも信用しているのだろうか?
 その考えはあまり愉快ではなかったが、月森は腹をくくることにした。
 いまさら何でもないと言うことはできない。

 訝しげな顔をしている土浦を真正面から見た。


「音楽科の生徒の中に、のことを良く思わない連中がいるのは知っているだろう」

「………ああ」


 コンクール出場者に対する羨望と妬みの感情は、大なり小なり音楽科の生徒なら誰もが持ち合わせている。その視線はコンクールが始まって以来、参加者の全員が感じてきたものだ。
 しかし、に対するそれだけが、自分たちに向けられるものとは微妙に違っていると気づいたのは、第一セレクションが始まってすぐのことだった。







 ―――普通科のくせに、素人のくせに。







 そんな言葉が水面下でひそかに囁かれていることを、自身も気づいていたはずだ。
 同じく普通科である土浦は、そんな陰口はひと睨みで黙らせたが、は気づかぬふりをして聞き流し続けていた。
 本人がそうしているのに他人が勝手に横槍を入れるのはおかしい気がして、土浦は周囲の態度を苦々しく思いながらも、ただ見ているしかできないでいたのだ。


「これは少し前に小耳にはさんだことなんだが………」


 意を決したにもかかわらず、月森はやはりそこで言葉を濁す。
 土浦は今度は促したりしなかった。だまって月森の言葉を待っている。


「…………一部の人間が、最近なにかをしているようだと」


 月森の言葉は相変わらず的を射ない。
 しかし、今回ばかりはそれでじゅうぶんだった。
 土浦の表情が、にわかに曇る。


「なんだと?」


 その声音は地を這うように低い。月森は相手をまっすぐに見つめた。


「まだ確証はない。ただの噂かもしれない。音楽科の生徒が、普通科にいるに対してそうそう手を出せるとは思わないが………」


 それに関しては土浦も同感だった。
 普通科の校舎に音楽科がくれば否が応にも目に付いてしまう。昼休みや放課後は、参加者同士でつるんでいることが多くなった。なにかをするなんて機会は、あるとは思えなかった。


「もしそうなら、の様子に変化があるんじゃないかと思ったんだが」


 月森が考え込むようにあごに手を当てる。
 それを見て、土浦が口を開いた。


「そういうお前はどうなんだよ。あいつを見てて、何か感じたのか?」


 月森はわずかに眉を上げて、驚きを表現して見せた。
 気づいていたのか、自分が彼女を見ていることに。いや、よく考えれば当たり前かもしれない。自分だって、相手が彼女を見ていることを知っているのだから。だからこそ、今こうして話をしているのだ。
 月森は首を振った。


「いや、普通に見える。少なくとも俺が、俺たちが見ている間の彼女に変わりはない」


 月森があえて俺たちと言い直したことに、土浦はわずかに反応した。
 彼女を見ているのが自分たちだけじゃないことを、薄々は感づいていたから。月森は続けて言った。


「同じ学科の君なら、音楽科の俺たちには見えない間の彼女を知っているかと思ったんだが」


 何か気づかなかったか、と月森は土浦を見た。
 土浦も、思案顔で腕を組む。


「…………いや、特には」


 そこまで言って、土浦はふとある光景を思い出した。
 下駄箱の前で、靴を履き替えもせずに立っている彼女の姿を。
 何をしているのかと思い声をかけると、振り返ったあいつはいつもどおりの笑顔で。だからその時は気にもとめなかったが………。
 そういえば、今朝もそんなことをしていなかっただろうか。下駄箱の前に立ち尽くして。声をかける前に入っていってしまったが、確かにその直前、なにかをポケットに押し込んでいた。


「……………」


 ひとつのことが引っかかると、次々と疑惑は浮上する。
 いつも登校時間の定まらないあいつが、ここ最近は決まった時間に登校している。それも、チャイムが鳴る直前の、遅い時間に。
 サッカー部の土浦は普段、朝練のために早朝から登校していたが、コンクール期間中は休部しているため、登校するのは遅めだった。以前はそれほど頻繁に見かけることなどなかったのに、最近は登校する姿をよく目にする。

 関係ないかもしれない。
 今まで決めていなかったことを、最近になって定めただけなのかもしれない。
 しかし、そのことはなぜか土浦の心に強く引っかかった。


「土浦?」

「―――ない、わけじゃない」


 沈黙に訝しがる月森に答えて、土浦は鋭く目を細めた。それを聞いた月森も眉をひそめる。


「やはり…………」

「だが、決めつけるには弱いな」


 少なくとも、が表立って彼らに見せる表情はいつもどおりで。
 月森のことがなければ、気づかなかったかもしれない。
 それさえも、確かな確証があるわけではないのだ。
 二人の間に、沈黙が流れた。


「………今の段階ではなんとも言えねぇ、か」

「ああ、そうだな」


 土浦の言葉に月森が頷く。
 今二人に出せる答えはこれしかなかった。
 苛立たしげに土浦が舌打ちする。


「くそっ、せめて事実かどうかだけでもわかれば………」


 月森も同感だった。
 に対して、確かに嫌がらせが行われているとわかりさえすれば、何らかの行動を起こせようというものだ。しかし、こうも曖昧な状況ではどうすることもできない。


「注意を払うしかないな。彼女の変化を見逃さないよう」

「………ああ」


 してやれることの貧弱さに、土浦は苦く頷く。
 自分たちの無力さに憤りを感じながら、二人は昼の練習室を後にするのだった。















2005/3/13 up



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