12 先生と生徒






「やるよ、それ」

「は?」


 無造作に差し出された一冊の本を受け取って、は金澤の顔を見た。
 今日は火曜日。金澤との個人レッスンの日。
 練習室に向かう途中、金澤がなにやらいつもより余分に本を持っているな、とは思っていたが、まさかこうくるとは思ってもみなかった。
 手元にある本と金澤の顔を交互に見やる。


「なんだよ、いらないのか?」

「いります………けど、これ……」


 ぱらぱらと中身をめくると、いくつもの楽曲が次々と現れた。歌曲集だ。しかも全部日本の曲ではない。


「イタリア歌曲集だ」


 金澤はピアノの楽譜たてに寄りかかり、くわえた煙草を揺らして言った。火はついていない。
 金澤は決しての前で煙草を吸わないが、口が寂しくなったり、手持ち無沙汰になったりすると、時々こうして火のついていない煙草を口にくわえている。
 その仕草がには少し子供っぽく見えて、密かにほほえましく思っていたりするのだが、金澤には言わない。言えばきっと、やめてしまうだろうから。


「いいんですか?」


 は金澤の顔をうかがう。


「前に貰った灰皿のお礼。音大が編纂したやつで、有名な曲が多いから初心者のおまえさんにも馴染みやすいだろ」


 と言われても、歌詞も題名もイタリア語で書かれているし、いくら上達したとは言え、楽譜を見ただけでメロディーをひろえるほど、まだのソルフェージュ力はついていない。
 首をひねるに、金澤がかしてみろ、と手を差し出した。


「たとえばこれだな」


 そう言って、鍵盤をたたき始める。
 軽く流れる伴奏と、金澤のハミング。


「あ、CMで聴いたことある」

「ハバネラのカルメン。これは?」


 ページをめくって旋律を変える。


「いとこの結婚式で聴いた!」


 うれしそうに手をたたくと、金澤はピアノを弾きながらこちらを見た。
 楽譜や鍵盤から目を離しても、演奏に淀みはない。


「題名知ってるか?」

「題名?」


 ふるふると首を横に振ると、金澤はおもむろに答えた。


「Piacer d'amol 愛の喜び」

「へー……」


 金澤の横に立って楽譜を覗き込む。
 イタリア語はほとんどローマ字読みなので、発音だけならにも読めた。確かに題名のところにそう書いてある。
 そんな意味だったんだと感心しているを横目に見やり、金澤は少し意地の悪い笑みを浮かべて見せた。


「けど歌詞の内容は、恋人のシルビアって女に裏切られた男が、嘆いている話」

「ええ〜!?」


 が信じられないというような声をあげると、金澤は本当だぞ、と笑う。


「だって、これって、結婚式とかでよく………」


 事実、のいとこの披露宴では、音大生の友人がこの歌を歌っていた。曲調も明るく、耳慣れたメロディーだ。それが、恋人に裏切られた話だなんて。


「題名だけ見て、よく考えもせずに歌っちまうんだろうな。けど実際は、愛の苦しみを歌った曲だ」




 ――愛の喜びは一日しか続かないが、愛の苦しみは命の限り続くのだ。




 サビの部分の歌詞を指して、金澤がそう訳した。


「明るいメロディーでも、言ってる内容まで明るいとは限らない。歌は他の楽器と違って言葉がつく分、そういうところがあるからな。おまえさんもよく歌詞の内容を読み込めよ」


 楽譜を閉じて、の手に戻す。
 は神妙な顔で頷きながらそれを受け取る。


「オペラアリアも多いから、おまえさんにはまだ技術的に難しいかもしれないなぁ。ま、もう少しすれば歌えるようになるだろ」


 煙草を口から離して金澤は言った。練習を再開しようという合図だ。
 は貰った歌集をしまうため、ピアノの足元にしゃがみこむ。


「そういやおまえさん、次のセレクションの曲は決まったのか?」


 ピアノの陰に見え隠れするの頭を何気なく見ながら、金澤は軽い気持ちで聞いてみた。
 本当に軽い気持ちで。
 しかし次の瞬間、金澤は固まることになる。


「いいえ、まだはっきりとは決めてないんですけど、一応候補はあるんです。『夢のあとに』が今のところ一番なんですけど。フォーレ作曲の」

「………………」


 しゃがみこんだままのには金澤の顔が見えない。
 見えていたなら、間違いなくその異変に気づき、訝しげに名前を呼んでいたことだろう。先生? と。
 しかし、が立ち上がる次の瞬間にはもう、金澤は平静を取り戻していた。


「……へー、いいんじゃないか。テーマにも合ってるしな。恋を失った男が未練たらしく歌う曲」

「え、そうなんですか?」


 譜面台の高さを調節していたが、驚いた顔で金澤を見た。
 それに驚く金澤。


「なんだ、おまえさん。歌詞読んでないのか?」

「いや、一応読みましたけど…………」


 学校の図書館で必死になって訳詩を探したのだ。
 さすが音楽科がある学校なだけあって、星奏学院高等部の図書館は音楽関係の蔵書が非常に充実している。しかし、数が多すぎると逆に、目当てのものを見つけ出すのにやたらと手間がかかってしまうのだ。特に音楽素人のには至難の業だった。


「おまえさん、入試の時ちゃんと国語の試験受けたんだろうな」


 金澤が眉間にしわを寄せてを見やる。明らかにバカにしている目だ。


「受けました! 失礼な! そういう意味じゃなくて………」


 金澤の言葉に頬を膨らませながら、は考えるそぶりを見せた。
 確かに歌詞の内容は金澤の言うとおり、恋人に振られた男が夢の中で幸せだった頃の思い出を振り返り、失った恋を、恋人を取り戻したいと嘆いているものだった。訳詩と一緒に載っていた楽曲説明にも同じことが書いてあったのだが、しかし実際に曲を聞いたとき、は別の何かを感じたのだ。


「メロディーも悲しげなんですけど、なんていうか………歌詞とメロディーを合わせると、それだけじゃないんじゃないかって思えて………」


 自身、まだしっかりと曲をつかみきれていないのだろう。
 言いながらもしきりに首をひねっている。
 不意に金澤の顔を見た。


「おかしいですか?」


 まっすぐに助言を求めてくる瞳。
 金澤は純粋なその目に一瞬怯んだ。
 自分の中の動揺を見透かされてしまいそうで。
 だから平静を取り繕うためににやりと笑ってみせる。


「いや、いいんじゃないか? 同じ曲でも演奏する人間によって解釈はそれぞれだからな。そうだな、あえて言うなら………」

「言うなら?」


 首をかしげる


「恋をすることだな」

「恋?」

「そう。寝ても覚めても忘れられないくらい、熱くて激しいやつ」


 とたんに赤くなる
 それを見て意外だとでも言うように。


「おいおい、いまどきの高校生がそんなんで赤くなるか? 普通」


 その顔にはいやみな笑顔。からかっているような。余裕の。
 それにかっとなっては叫ぶ。


「これは先生がいきなり言うから!」

「そうかそうか。その様子じゃ、恋人なんているわけがないなぁ」


 のらりくらりとした、人を食ったような金澤の言葉。
 相変わらずニヤニヤと余裕の笑みを浮かべていて。


「今はいないですけど、きっとそのうち作ります!」


 言いながら、ふいと横を向く。
 金澤はそれに苦笑して、からかうようなその語調を改めた。


「やっぱりほしいもんなのか? 彼氏」

「そりゃそうですよ。高校にはいったら彼氏つくって、手をつないでデートしたり、一緒に帰ったりするのが夢だったんです」


 友人の中には、もうすでにそんな夢は達成してしまった人が何人もいる。もちろんそれ以上の関係も話で聞いているが、は赤面して最後まで聞いていられないタイプだ。


「ほお。ま、おまえさんたちぐらいの年ならそんなもんだろうな」


 そう言う金澤をジト目でにらんで。


「…………なんかバカにされてる気がする」


 が低く呟いた。
 金澤は相変わらず笑いながら、ピアノの鍵盤を軽くならす。


「いやいや、そんなことないぞ。その年齢にしかできない恋ってのがあるって言ってるんだよ」


 和音の響きが練習室の中にこだました。
 発声を始める前にする、金澤の癖だ。
 だからも姿勢を正す。


「先生は、恋人いるんですか?」


 突然の発言に、金澤は目を丸くした。
 はこちらを見ている。思いのほか真面目な顔をして。


「…………昔の俺はもてたんだぜ?」


 だから冗談めかして答えた。
 さっきの余裕の笑みで。


「いないんですね。そうですよね、そんな格好じゃね」


 そんな、というのはつまり、ずるずるの長い髪に、無精ひげに、よれよれの白衣ということ。


「ばっか、これは俺の有り余るビボーを隠すためにわざとやってるんだよ」

「へぇ〜」


 少しも信じていない視線で金澤を見る。


「あ、おまえさん信じてないな。今だって私服で街を歩けば、言い寄ってくる女がわんさといるんだぞ」


 金澤は笑いながら言う。
 は相変わらず疑惑の視線を向けているが、少しも信じていないわけじゃない。わんさと、は、言いすぎだろうけど。


「あー、おまえさんに俺の素顔を見せてやりたいよ」


 金澤のその発言に、は身を乗り出した。


「見せてください」


 好奇心いっぱいに目を輝かせる。
 しかし、金澤は横を向いた。


「だめ」

「どうしてですか?」

「見たら間違いなく、おまえさんが俺に惚れちまうから」


 にやりと笑う金澤。
 またからかわれたのだと悟って、はむくれて金澤をにらんだ。


「惚れたりしません!」

「ははは、怒るな怒るな、冗談だって」


 声をたてて笑った金澤は、本格的に音階を奏で始めた。
 他愛のない雑談は終わりを告げて、レッスンが始まる。


 発声のパターンを考えている金澤の顔を見つめて、はふと、胸のあたりに残った棘の存在に気づいていた。














2005/3/5 up



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